私が私を見つめてました。②
どうも!
さてさて、「私」、あるいは「自己」と言うものの本質についての記事も進めておかねばなるまい。
shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com
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ちょっと話が入り組んでいる感じがするけど、「私」が「私」として生きる、と言うか、生き抜くと言うことに直結する考え方であり、
「人生のすべての答えが己の中にある」
と言う真理にもつながる。
かと言って「己」や「エゴ」が肥大化してしまうと、思い通りにならない人生を前に無力感や無価値感を強化してしまうことにもなるだろう。
かつて私もそう言う時期があった。振り返れば学びの時期であったのだろう、と解釈もできる。
人は幸せになるために生まれてくる。綺麗ごとではなくそうだ。
だが、他者をも幸せにする。その軸が必要だ。
他者に与え与えられる。その連関の中で人は人を生かし生かされ、不断に成長する。
そんな可能性を秘めた「己」・「自分」についてもっともっと掘り下げてみよう。
さてさて。
『「世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)」と「個人を成り立たせている原理(我=アートマン)が実は同一のものだよ』/「史上最強の哲学入門」より抜粋
であり。
『アートマンとは不滅のものであり、本性上破壊されないものである。(中略)アートマンについては「に非ず、に非ず」としか言えない。それは捉えることができない。なぜなら捉えようがないからである。それは破壊することができない。なぜなら破壊しようがないからである。それは執着することができない。なぜなら執着しようがないからである。それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?妻よ、不死というのは、こういうことなのである」/『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』
であった。
この中で、次に取り上げるものは「に非ず、に非ず」しか言えない、と言う箇所である。
これも論理的に考えれば自然に導かれる。
アートマン(私)は認識の対象にならないと前に書いた。
だから「私はAです」とか、「私はBです」と言うことは”本来的に”できない。
なぜなら、「私は〇〇です」と言うときの「〇〇」とはすべて「認識対象となったもの」だからだ。
「『(絶対に認識対象にならない)』私は『(認識対象となった)〇〇である」
という文章は成り立たないことになる。
振り返るが、「私」を認識するとすれば、「認識するもの」が必然的に必要になる。だとすると「認識するもの」を「認識するもの」が必要になる。
そうやって「認識するもの」を「認識するもの」がどんどん上に積み重なってしまう(まあ、横でもいいんだけど)イメージで、「私」をダイレクトに認識することはできないと言う論理であった。
これを「無限遡行」と言った。
→「私が私自身を認識できるとすると、無限遡行と呼ばれる論理的にヘンテコなことが起きてしまう。だから、私が私自身を認識するという関係性は成り立たないよ。」/「史上最強の哲学入門」より拝借
であるのだから、もし、それでもどうしても「私」という存在を言語で表現したいとすれば、それは
「私はAではありません。私はBではありません(私はAに非ず、Bに非ず)」
という否定的な言葉でしか言う事が出来ない。
なんか屁理屈のように聞こえるかもしれないが、「私は〇〇商事の〇です。」とか、「私は吉永小百合の息子です」とか。
そう言う外面的なものも「私」が絶対的に存在する条件とはなりえないことも「私が私を見つめてました」のところで触れた。
「私」が「私」以外の「A」さんを認識することはできる。でも、「私」が「私」をこれこれこうですよ、と断定口調で説明することはできないと言うことだ。よろしいだろうか。
こんな具合で、東洋では「自己」の本質について一途に突き詰めたのである。西洋では20世紀にサルトルがようやくこの境地に達した。
これは別に西洋が遅れていたとかではなく、西洋の関心が己の外側、世界をどう制御するのか、と言うことに向かっていたためである。
さてさて。
「『私』とは、『〇〇ではない』という否定的な言葉でしか記述できない特殊な存在である」と言うこと。
でも、日常的に「私は〇〇です」と言う文脈で自分を把握しているし、そうやって人にも自己紹介なり自己を開示なりしているはずだ。
誰も「私はAではありません」などとは思ってはいない。
しかしだ。
「哲学的には『私は〇〇ではない』というのが真理なのに、日常的には『私は〇〇である』と考えている」
という我々の思い込みが、この世のあらゆる不幸を生み出す原因にもなっているのだ。
これを以下に説明する。
例えばだ。
古代インドでは「踊り子」と「観客」と言う言葉を使ってそれを説明する。
「史上最高の哲学入門」では「映画」と「観客」と言う言葉に言い換えて説明している。こっちのが分かり易いかもしれない。
真っ暗闇の映画館のなかで、たったひとりで映画を観ている人がいるという状況があるとする。
観ている映画がとってもリアルで、素晴らしい出来栄え。
こんな時、人は時に主人公にどっぷり感情移入し、映画と一体化するかのごとき感覚を覚えることがある。
もちろん、どれだけ感情移入して自分自身を映画の主人公と同化させようが、実際のところ、映画とそれを見ている観客の間には何の関係もない。
なぜなら、どんな内容の映画が流れようが、「観客」にとって「映画」はただ「観るだけ」の対象物にすぎないからだ。
だから、仮にその映画の内容が素晴らしい人間を写したものであっても、惨めな人間を写したものであったとしても、「観客」が素晴らしい人間になったり惨めな人間になったりすることはない。
にもかかわらず、映画館で偉人伝の映画を観て、
「うわ~、俺ってなんて素晴らしい人間なんだ!」
と大声で自慢したり、逆に、悲劇的な主人公の映画を観て、
「俺はなぜこんなやつなんだ、生まれてこなければよかった!」
となるだろうか?
客観的に見れば単なる「おバカ」であろう。
でも、だ。
その彼は映画にどっぷりと浸かり、主人公に感情移入し、同化している。
その彼を日常に引き戻したい。なんと声をかけてあげたらいいだろう。
「もっと謙虚になれ。あなたはそんなにすごい人間なんかじゃない。」?
それとも、
「そのうちいいこともあるよ。元気出しなよ。」
そんな言葉をかければいいだろうか。
いやいや、それ以前に、
「落ち着け!それはただの映画だ!お前自身とは何の関係もない!お前自身には何ひとつ起こっていない!」
ってなるはずだ。
でも、彼は耳を貸さない。
「何言ってるんだ!これは現実だ!間違いなく、私自身に起こっていることだ!」と・・・。
しかし、何かの拍子に明かりがついて『自分はただ映画を観ているだけだった』ということに、本当に気づくことができたとしたら・・・。
「あっか~~~~ん!!もうだめだ~~!!助けてくれ!・・・ん?んん?あれ?これ映画?」
その瞬間、彼が抱えていた「問題」や「不幸」は一瞬にして消え失せる。
『彼自身』は、本当はまったく不幸なのではなかった。
不幸だったのはあくまでも映画のなかの主人公であって、『彼自身』ではなかったのだ。
それなのに、彼は勝手な思い込みで「不幸だ不幸だ」と勝手に騒いでいただけなのである・・・。
話としては、イメージとしてはシチュエーションをなんとなく把握していただけると思う。
でも、この世の不幸は全て仮想現実で、と考えるにはこれだけではあまりにも飛躍しすぎている気がする。
手を、頬をつねれば普通に痛いし、朝おはようと目覚めて、目の前に繰り広げられているのはいつもと変わらぬ日常で。そこになんら違和感はない。
この辺の違和感を払しょくすることはできるのだろうか。哲学は屁理屈ばっかりこねてるけど、そこになんらかの明快な答えやヒントを提示しているのであろうか?
これについてはもう少し説明が後になる。今はここに書いたようなことをなんとなく、中立の視点でやんわり把握していただければ幸いである。
今日はこんなところで終わる。
さてさて、今日は非常に天気がいい。うららかな陽光のもと病院へ・・・うへw。
では、そんなところで終わります。/おしまい。
>Green様(id:shiho196123 )
コメント、ありがとうございます!
お褒めいただき光栄です。ありがとうございます。もっともっと文章に磨きをかけたいと思います。
コメントありがとうございます!
つい反射的にレッテル貼りしちゃうのも未熟だった証拠ですw。いや、今でもじゅうぶん未熟ですが・・・。「まちカド」や「鬼滅」を進行形で観ています。
コメントありがとうございます!
そうなんですよね・・・。子は親元を離れるものだし、親も子離れしなくてはいけない・・・。なんだか切ないです。
コメントありがとうございます!
銀行は体育会系でブラックでした・・・。もっとひどいところもありましたが次回以降に譲りますw。
コメント、ありがとうございます!
テキトーさは武器になります。あんまり生真面目だと心を病みますよね。
>モカリーナ様:(id:mocharina09 )
コメント、ありがとうございます!
新人研修は楽しく、この後も何度か研修に行きましたがやっぱり楽しく。おおっ、代表に選ばれたのですね!