蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

私が私を見つめてました。

どうも!

 

さて、寒い。とっても寒い。

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風呂沸かして朝風呂に浸かろうと思ったけどシャワーにしてしまった。

 

思わずチキン肌である。

 

行楽のシーズンが巡ってくる。春と秋は好きだけど短い。

 

春夏秋冬、四季の移り変わりやメリハリがきっちりしている日本の風情。情緒。

 

ああ、世界はこんなにも残酷で美しい。(「進撃」の見過ぎ)

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イケメンクリスタ。

 

ただ。

 

最近、年の近い人と酒を呑んでない。

 

どっちかと言うと年配の人と呑むことが多く、多くはただ酒を恵んでいただくことになる。

 

人様のお金で呑む酒は美味い。(こらこら)

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その代わり、別の所でしっかり汗してその人に恩返しするのだ。

 

「ギヴアンドテイク」はあんまり好きじゃない。そこに義務感が生じ、気持ちが重たくなる。

 

「ギヴアンドギヴ」。無私の心。相互の「winwin」。相手に喜んでもらう。

 

こっちのが行動原理・規範として相手にとっても自分にとっても価値がある。

 

そんな気はするし、やってて気持ちが満たされるし自分の成長にもつながる、と思う。

 

前記事の流れを引き継ぎ、そんな「私」と言うものについてとっぷりと語る。

 

 

shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com

 

アートマン(私)」と書いた。

 

アートマン」。

 

「芸術男」ではない。なんとなく故岡本太郎氏を思い出した。

 

西洋の科学とか哲学とかが、「世界(外側)を把握し制御しようとする」学問体系であったのに対し、東洋の関心事は「自己(私)」を深く深~く掘り下げるものであった。

 

で。

 

代表的な東洋、特にインドの仏教の徒として、ヤージュニャバルキャ、釈迦、龍樹と言う三名にご登場いただく。

 

まずは「ヤージュニャバルキャ」である。舌噛みそうな名前だけど。

 

最初にこの人が言ったこと。

 

それは「梵我一如」と言う。

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どう言う事か。

 

『「世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)」と「個人を成り立たせている原理(我=アートマン)が実は同一のものだよ』/「史上最強の哲学入門」より抜粋

 

 

 と言うものだった。

 

その理論に基づき、彼は、

 

アートマン(我、自己、私)の正体がブラフマン(梵、世界の根本原理)と同一であることを知った人間は、すべての苦悩から解放され「究極の真理」に到達する。

 

と言うことを唱えた。

 

は?っと受け入れられない方もいらっしゃるかもしれない。

 

だって、例えば世界は容赦なく色んなものを奪っていくし、投げつけていくし、壊しても行く。

 

端的には自然災害があろう。

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少なくとも混沌としていて、掴みどころのないものだ。

 

西洋の科学の関心事が前述のように世界の把握とか制御に向かっていたことからも、その真実やら真理やらに到達するのは容易なことではないと言うのは直感的、感覚的にも分かる。

 

一方で。

 

「人生のすべての答えは己の中にある」

 

と言うような言葉も。

 

高橋ヒロシ先生の「WORST」でもそんなことを言っている。

 

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ここは順を追って、釈迦や龍樹と言った人にどう引き継がれそう変遷したりしていったかはのちのち話していくけど、まずはヤージュニャバルキャの言わんとしていたことをまとめる。

 

あるとき。ヤー(略)が究極の真理を求めんがため、家族を捨て旅に出る。

 

隠遁生活をするため今で言う出家みたいのことをするのだ。

 

そして妻に財産を分与しようとする。

 

彼の妻が言う。

 

「あなた、もしもこの大地がすべて私のものになったとしたら、それによって私は不死になるのかしら?」

 

ヤー(略)はこう答えた。

 

「いいや、ならないよ。君は富を得ることで裕福な生活を送ることができるようになる。しかし、それで不死になることはない。」

 

「ねえあなた。だったら富に用なんかありません。それより、あなたが知っている不死の秘密を私に話してください。」

 

と妻。

 

財産貰って金持ちになっても死んだら意味ないよね。そう言う事だ。

 

これに対しヤー(略)は。こう答えた。

 

アートマンとは不滅のものであり、本性上破壊されないものである。(中略)アートマンについては「に非ず、に非ず」としか言えない。それは捉えることができない。なぜなら捉えようがないからである。それは破壊することができない。なぜなら破壊しようがないからである。それは執着することができない。なぜなら執着しようがないからである。それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?妻よ、不死というのは、こういうことなのである」/『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド

 

ケムに巻いたような言葉だが、以降詳しく説明する。

 

分かりにくくも深い所は、「認識するものを認識できる?」ってとこ。

 

あとは「束縛されることも、動揺することも、害されることもない」ってところ。そして「に非ず、に非ず」だ。

 

まずはちょいと論理学的な文脈で説明をつけよう。

 

「認識」と書いた。

 

「認識」。はてさて。

 

これは前記事で触れた、意識体験が引き合いとして出てくる。

 

「私」と言うもの。

 

これはなんぞや?と言う時に、ああ、この身体が私ですよ、と自分の身体を指さして素朴に答えるとか、〇〇商事の課長が私です、とか。

 

色々な表現が考えられる。

 

でも。

 

どれも本質的な「私」の定義にはなっていない。「私の証明」としてもっとも本質的な答えとしては、昨日書いた、

 

「色んな事を見たり感じたりできる意識現象があること」

 

が一番あらゆる反論や懐疑に耐えうるものなのだ。

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脳みそは器でしかなく(今の科学の枠組みでは少なくとも)、身体と言うのも次のような理由で答えには至っていない。

 

会社へ行き、飯を食い、セクハラして、定時に帰る。そんな日常が続いていくとしてもだ。

 

自分が死んでいなくなったら?と言うことを考えてみると分かる。

 

死後、自分のコピーロボットが動き出す。そして同じ日常を繰り返すとする。

 

意識体験や意識現象を伴わないこれらの活動は、”コピーロボットが代わりに生きている”人生ではないか。

 

もう肉体は滅びているわけだから、肉体や身体と言うのは、勿論脳みそも含めて私とは何?と言うクエスチョンにダイレクトには答えていない。

 

「〇〇会社の〇〇です」と言う肩書なんかもそうで、今この瞬間に「私」が存在する必要条件にはなっていない。

 

会社が倒産して無職になったら私は私でなくなるだろうか?

 

否、勿論ならない。

 

ちょっと話がややこしくなってきたけど、どうしても意識とか、心とか。こうしたものを引き合いに出さなければ「私」とは何か?のアンサーにはならない。

 

さて、この前提で、「認識」と言うことについて考えてみる。

 

「色んな事を見たり感じたりできる意識現象があること」

 

これが「認識」、である。

 

私と言う存在の本質は、身体でも、思考などの精神的な活動でもなく、

 

「色を見たり、感じたり、触感を感じたり、わくわくしたり・・・と言った、認識することそのもの」

 

と言うことだ。

 

だとすると。

 

次のことが成り立つ。

 

「ああ、どうやって認識するものを認識できようか?」

 

これはできないよね?と言うヤージュニャヴァルキヤの問いかけだ。

 

哲学者のサルトルも「存在と無』の中で同じことを言っているのだが、「認識するものを認識することは絶対にできないよ」と言うこと。

 

それを以下に示す。

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仮に。「認識するもの」を認識できたとする。

 

これは背理で、できないものを無理やりできたことにしてみるわけだ。

 

よし!認識するものを認識したぞ!と言って矛盾を証明する流れだ。

 

すると。

 

「認識したぞ」と言ってる以上、その「認識した」に対応する「認識するもの」が存在しているはずだ。

 

だって、「認識するもの」がいないのに、「認識した」とは言えない。

 

つまり。

 

「認識するものを認識したぞ」と言い張っている認識するもの、がどこかに存在していると言う事である。ややこしくなってきましたね。

 

おお、そうすると、その「認識するもの」もちゃんと認識してやらないといけない。そうじゃないと、「認識するものを認識できていない」と言うことになってしまう。

 

じゃあ、さらに無理やり「認識した」と言ってしまうとする。

 

『「認識するものを認識したぞ」と言い張っている認識するもの」を認識した。これで大丈夫だ。』

 

・・・本当に?

 

いや、「認識」と言う二文字が永遠に折り重なっていくだけである。なんとなく垂直に認識するものとか認識が積みあがっていく感じだ。

 

これを「無限遡行」と言う。

 

どうやっても認識されていない「認識するもの」が出てきてしまい終わりがないのだ。

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だから帰結として、「認識するものは認識できない」と言うことになる。

 

「認識の特徴である『主観-客観』の二元性を意識のなかに導入することを意味する」

 

と言うことを言って同じ論理を展開したのがサルトルであるがまあ、おんなじことだ。

 

「私が私自身を認識できるとすると、無限遡行と呼ばれる論理的にヘンテコなことが起きてしまう。だから、私が私自身を認識するという関係性は成り立たないよ。」/「史上最強の哲学入門」より拝借

 

ここまでOKだらうか。難しいんだけど。

 

では。以降まだまだ続く。/おしまい。

 

>しんふぁぶ様(id:shinfab 

 

コメント、ありがとうございます!

 

きっとそうなんですよね。子宝に恵まれると守る者が出来た、と言う意識になるし、物事の見え方も変わってくるのだと思います。

 

>切株おやじ様( id:masuhiro6595  )

 

コメント、ありがとうございます!

 

これ、永遠の謎ですよね。そう言う話は聞くけどホントに?とは思います。私は死後の世界も魂も輪廻転生も信じていますが、記憶はたぶんリセットされるんでしょうね。

 

アメリッシュ様(id:funyada 

 

コメントありがとうございます!

 

もともとはナチスでしたか・・・。真相はいかに?

 

知を追い求め、魂が喜ぶような生き方をする。哲学者はそうやっていたみたいです。す、すげえ・・・。

 

ビッグボーイ様( id: juliajewelkali 

 

コメント、ありがとうございます!

 

おおお!?ありがとうございます!カルペ・ディエムもメメント・モリも初めて目にします。「不二一元論」も。ぜひ調べてみます。

 

モカリーナ様:(id:mocharina09  

 

コメント、ありがとうございます!

 

分かり易い説明ができるように日々精進です。読んでいただき感謝です。ありがとうございます。

 

> タコスカ様(id:kefugahi   

 

コメント、ありがとうございます!

 

アインシュタインはなんか電波系天才っぽくもあり。キャラのカッコよさはもうカリスマ級ですよね。

 

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