「死」・「生」・「苦」・・・「悩み」についてがっつり語ります。④
その昔。
オタクの先輩とオタクの私が、ファミレスでメシをふにふに食いながら熱いトークをかましていた。
先輩:「お前、二次元の残念系美人は好きか?」
私:「え?いやあ、嫌いな人いるんですかねえ?」
先輩:「人のことはどうでもいい。お前はどうなんだ?」
迫ってきた。
↑「残念系」でググって出てきた人たち。(名前を当ててください。当てても特に差し上げるものはございませんw)
どうも。
週休二日の皆様はお仕事・家事育児・学業お疲れ様でございます。
ちと早いけど。
本をつらつらと読み、メシをふにふにと食い、不敵に笑う。そして放屁。
人間一日に6万回も思考するそうで、その多くがとりとめもないことだったり、嫌な思い出の反芻だったり、甘酸っぱい恋の物語だったりする。
およそ、脳みそと言う器官を取り出してみても、こうした意識体験の何一つようとして掴めない。
だからこそ永遠のテーマとして神秘のベールをまとっているのであ~る。
考えてもみてほしい。
脳みそはまあ、論理的・理性的思考を司る所や情動・本能を司る所などなどざっくりモジュール化してるけど、ミクロ的にはニューロンとか言うミミズみたいなものがわんさか集まり繋がった器である。
で。
例えばリンゴが赤い、と言うこと一つとってもだ。
その独特の「赤」と言う感覚や質感みたいなものを、そのミミズのどんな相互作用を通じて展開されているのか、説明が付けられるのか?と言うと、現代の科学の枠組みでは何一つ分からないわけだ。
勿論カレーが美味いとか、恋人といるとときめくとか、隣のおっさんがなんか臭いとか、五感も交えてちょっと複雑にしただけでも余計にややこしくなる。
何が言いたいかと言うと。
このブログではつたない記事で、「死」や「悩み」といったテーマを泥臭く語っているわけだけど、そのテーマを引き継ぎさらに語りたいだけで。
ああ、それなりに色々自分も学んでいるんだな、とちょっとだけ個人的に嬉しくもあり。
つうわけでタイトルの通り、もう少し突っ込んで語る語り部となる流れを一子相伝で・・・引き継ぐ。(んな大層なものかよ)
(ご案内)
「死」について少しだけ前記事で触れたし、ひとつコーナー化している。
過去に何度か死にかけた話をしておりますw。
shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com
shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com
shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com
shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com
(テキトーに読んでいただければ・・・w)
で、「死」について哲学的に考えたり、心理学用語で言う所のリフレーミング(ある出来事や物事を、今の見方とは違った見方をすることで、それらの意味を変化させて、気分や感情を変えることです)などを試みてみたり、俯瞰・客観視してみたり。
色々試してみた。
するとである。
いや?
そりゃあ死ぬのは怖いし、誰だって死にたくはないけど、その恐怖と闘うでも立ち向かうでもなく、なんとなく飼い慣らしたり、受け入れたり、解釈を変えていろんな角度から見てみたりで、思索の対象としては実に価値のあるものだと言うことが分かっても来た。
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版
- 作者: シェリー・ケーガン,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 文響社
- 発売日: 2019/07/12
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「死の恐怖」を克服する術と言うものを提示することはできない。いや、そもそも克服するようなものでもないのだろう。
上の二つの書は、「死」についてがっつり語った良書であり、二作目は過去記事で何度か取り上げてもいる。
前著はざっくりと言えば、死を哲学的にどう捉えるか?と言う内容が大半で、後著は死に直面した人の、死にどう立ち向かったかの事例を多々取り上げている本だ。
私はかつて、いやつい最近まで、死とか、自分が自分でなくなるとか、そのことを極度に恐れていた。
その辺のビビり具合は過去記事をトレースすると笑っちゃうほど伝わってくるので、もしよろしければ笑ってみてほしい。
いや、今だって怖れているんだけど、そもそも考えたってしょうがない話で、結局いつかは死ぬよね、ってところに落ち着きつつある。
恐れの根源は、まあ記憶とかまっさら消されて無になるか、あるいは魂として次の生として輪廻転生するか。
それは分からないんだけど、死に際にやり残したことがありまくりで後悔するとか、犬死するとかをことさらにネガティブに捉えビビり倒していたし、いるわけだ。
それを、上のイエール大学の先生の著では「剥奪説」と言っている。
例えばだ。
「ああ、わしゃあいつお迎えが来てもええよ、ふぉっふぉっふぉ。」
と縁側でのたまう好々爺がいるとする。
彼らは生ききった感じがする。
あとはアインシュタインも腫瘍が見つかって、
「ああ、もうやり残したことはないよ。」
とお医者さんに告げて亡くなっている。
別に社会的に名声を得たとか成功したとか云々に関わらず、やり残したことはない、と言う気持ちで天に召されるのは、その人からすれば後悔のない生き方をしたと言うことで、とても価値ある尊いことであると思う。
一方。
「剥奪説」と言うのは、これからの未来や人生やりたいことややり残しがたくさんあり、希望をようやく見出した人なんかが、突然青天の霹靂で死の宣告を受けた時などのシチュエーションを想定すると分かり易いかもしれない。
この世に未練を残して死ぬ。いや、そんなことを考える間もなく理不尽・不条理に突然命を絶たれる。
そう言う命も多い。
だが、人間誰しも死ぬときは死ぬ。これは動かしようのない事実だ。
釈迦は80歳くらいの時食あたりで亡くなっているが、彼は「老・病・死」と言う不幸を苦行によって乗り越えようと修行した。
想像を絶する苦しみだ。
なんでそんなことをするのか。
当時インドでは、「アートマン(私)」と言うもの(これはいずれ深く説明しますが)がなんなのか、とか、究極の真理とは?みたいなことを追求する上で、さる事情で苦行を科すことがそれを知る道なのだ、と信じ込まれていたからである。
だから人は苦行自慢とか、苦行マウントなんかをしていたらしい。
「オレは浣腸されたけど、三日脱糞してないぜ?」
「オレは四日目だ!」
「オレは・・・。」
と言う具合である。
この流れに異論を唱え、終止符を打ったのが釈迦だったわけだ。
いや、いくら苦行で自分を痛めつけても真理なんか分からんよ、と。
で、「中道」と言う道を進み、また示した。
悟りとか真理とか言うものが、「老・病・死」と言う苦しみを超越するものであれば。
じゃあ悟った釈迦はそのために何をしたらいいの?ってことにも一応の答えを提示しているわけだけど、それは正しい努力をしなさいとか、徳を積みなさいとか、正しく精神を安定させなさい、と言ったようなことだった。
これを総称すると「八正道」と言う。
ぶっちゃけて言えば、考えてもしゃあないから正しく生きなさい、と言うものだ。
それでも人は考え、懊悩する。
苦しみの根源は執着である、と言うことを言ったのも釈迦だ。
じゃあ、日がなネガティブな、そもそも否定的な思考や感情に支配されている自分はどうなるの?って人はとても多いと思う。
それは私もうつ病を患ったし、患っているからよく分かる。
ある日。
さるスピリチュアル本を手に取ったときのことは忘れない。
「あなたが病になりたくないのなら。簡単である。今すぐネガティブな考えを止めなさい。そうすればあなたは・・・。」
みたいなことが書いてあった。
私はその本を床に叩きつけて、ストンピング(=プロレス技の「踏みつけ」ですな)をかましたくなった。
「バ〇野郎!それが出来たら苦労はしねえんだよ!」
と。
さて。
ネガティブな考えを止めるにはどうしたらいいのだろう。
ここで脳みそのミミズのウネウネの話を持ち出す。
意識活動・体験と脳の因果関係みたいなややこしいことはとりあえず置いておいて、ミミズが次のミミズにちょん、と干渉して色々な思考とか感情とかが生み出されるものとする。
とりあえずする。
人は悩む。どうしようもなく悩む。
それは事実だ。不安にもなるし恐れも抱くし、病やお金、人間関係、恋愛のことなどで頭がいっぱいになり離れなくなる。
それが自然だ。
ただ、ニューロンの新たな繋がり・結合(シナプスと言うものを通すんですな)が泥臭く生み出されていくと、なんかこう、ふっと抜け出すときが来る。
目に見える(いや頭蓋骨の中にあるから見えないんだけど)変化をざっくりイメージしてもらうとそんな感じだ。
その新たな繋がりを生み出すものは、神経の再生であったり、新生であったり、成長と言うことだ。
いくつか方法はある。
過去記事で何度も書いてることだけど、例えば認知行動療法であったり、瞑想であったり、マインドフルネスであったり、(有酸素)運動だったり。
昨日書いたようににかっと笑ってみたり、ネガティブな思考に名前を付けて客観視したり(「ラベリング」などと言う)、頑張ったら休んだり、自分を癒したり。
メンタルブロックの浄化のセッションなんかも受けているけど、これも多分効果はある。
あとは判断・ジャッジをやめてみたり、自己コテカを上げてみたり(コテカフリークw。「肯定感」です)。
そうやってぐいぐい進む。進んでいるうち。
そんななんかかんかで、価値観や人生観の変容が起きていくか、もしくは悩みがどうでもよくなる時期が来る。
人間のあるべきスタイルが、本質が、変化を本能的には嫌うものだけどその実、変化や拡大、成長だからだ。
だが、次のステージに進むと新たな悩みが待っている。なんとも面倒くさいがそれが人生だ。
だが、それは経験値が確かに入ってレベルアップした、と言うことだ。
この時にきっとニューロンも、心境の変化が写像されるイメージで対応してうにょうにょ新生している。
そんなイメージだと思う。
で。
「死」の話だが、「剥奪説」を持ち出すのであれば。
よく、
「今日が人生の最後の日だとしたら、今日一日何をする?」
的なことが言われる。
これもまあ一つの明快なヒントではあるんだけど、いささかドラマチックだ。
前にも言った通り、そう言うドラマチックなマインドセットだと本当に、日常や現実が艱難辛苦や逆境や波乱を次々招くものになってしまう。
深層意識にそう言う風にアンカリングされてしまうのだ。
だからまあもう少しマイルドに、なんかすげえ人などを引き合いに出し、ああ、こう言う人は死を目の当たりにしたから覚悟が出来んだろうな、とか考えてみるのも一つの手だろう。
例えば松下幸之助さんとかだ。
なので松下幸之助さんの本を買ってみた。
そうすると、例外なくすべての人に訪れる「ゴール」である「死」から逆算して、今からの生をいかに価値のあるものにしようか、と言う気持ちが芽生えてくる、と思う。
別に「死」は早まったり遅くなったりするものではなく、どの時点かで超然と待っているもので。
ただまあ、運命は切り開くものなので、自ら死期を決める愚をあえておかすこともない。
すると。
目の前の愛する人をハッピーにしようとか、笑顔にしようとか。そんな気持ちが逆説的に芽生えても来る。
てなわけで。
そこからの生き方は人それぞれなんだけど、いわゆるマインドフル的な生き方をするとすれば、瞑想をするとかも大事なんだけどエゴ心を捨てて公のために尽くすことが欠かせない。
この辺は大乗仏教で言う「縁起」の概念でもあるし、心理学者のアルフレッド=アドラーの言う「共同体感覚」の概念にも通じるところだ。
「人は一人では生きられない」
は真理である。
さて。
最初に話を繋いで締めくくる。
自分と言う存在がいかにすごい存在か、と言うこともまあ、過去記事で再三語っているわけだけど、スピ系のフレーズを使うなら「(潜在)意識=現実」なわけで、自分は引き寄せの主で創造主である、と言うことだ。
そんなファンタジーなたとえじゃ嫌だ、って方には、上で書いた「アートマン(私)」の話をとっぷりとさせてもらう。
てなわけでよく人は、あの人がずるく立ち回って得をしているから私もずるく、的なことをつい考えたり、他人と自分を比較したりする。
それで劣等感を強めたり、優越感を抱いたり、ひどいときには見下したりマウントしたり差別したりする。
だが、それで何一つ得をすることはない。
なんかかんか「人」と言うワードが頭を掠めたら、私のオタ活の先輩の、
「人のことはどうでもいい。お前はどうなんだ?」
と言う原点にぱっと戻る訓練をしてほしい。
長くなってきたのでこれについては次回以降語ります。
では。/おしまい。
コメントありがとうございます!
おお!なんと言うありがたいお言葉!ますます励みます。
>切株おやじ様( id:masuhiro6595 )
コメント、ありがとうございます!
「悟性」と言う言葉はなかなか出てきませんな。さすがです。「感性」・「悟性」。かっこいいです。あとは「知性」と「理性」か・・・。
コメント、ありがとうございます!
「99%の努力と1%のインスピ」ですよね。まさしくそうです。準備が出来ている人だけ似見方する感じです。
コメント、ありがとうございます!
直感&結果オーライ。それが一番です。うだうだ考えたあげく結局やめちゃったやつとかが後々の後悔と直結してたりして、ああだせえなあ、と思うことは多々ありますけど、直感はふっと無意識の領域から湧いてくる心の声っぽいですよね。
>モカリーナ様:(id:mocharina09 )
コメント、ありがとうございます!物事にはすべてポジネガがありますよね。見方や角度を変えることのなんと重要なことか。私も昨日喫茶店で知らない人とがっつり語ってきました。
>ひめぐま様(id: himegumatan )
コメント、ありがとうございます!
よろしくお願いします!
やっぱりZ会は難しいイメージがありますね。高校時代取り組んだことがありますがまあ、手ごわかったです。
>Green様(id: shiho196123 )
コメント、ありがとうございます!
よろしくお願いします!
気楽に♪本当そうです。笑顔でゆる~く、の軸を取り入れることはとても大事です。