蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

「夜と霧」書評がだんだん説教に変わっていく動画。

どうも!昨日の説教の続きである!(やめんかい)

 

shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com

 

あ、そうそう、独自ドメインだのはてなProだのは解約しましたw。それ故少々お見苦しいことも今後生じてくるかもしれない。

 

さてさて、「夜と霧」である。

夜と霧 新版

 

「心理学者、強制収容所を経験する。」と言うフレコミであり、アンネ・フランクの日記と共に一時は世界の人々に対し、イスラエル建国神話をイデオロギーないし心情の面から支えていた、とあとがきにある。ふむ。

 

事実作中描写される本文は、前半部分は生々しい体験記を幾分主観を交えながらも、少しばかり引いた視点からの客観的な理論に結晶化させる為の布石を随所に打ち、収容者・被収容者のそれぞれの内面に渦巻いていた、あるいは内面の変化や退化を、心理学・精神病理学者としての臨床的な見地、視点で分析する後半部分へ繋いで行っている。

 

特筆すべきはその筆致の巧みさ、美しさだ。これは西洋文学の名作にひけを取らない。読者はいやが上にも想像力や五感を動員し、この書に没入すること請け合いである。

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随所にドストエフスキーやニ―チェの言葉が引用され、人生が、私が生きるに値するものであることを、死や苦悩を内包し全てを肯定してこその生、そしてそうした生こそが珠玉だと言うことを、心の臓を鷲掴みにする説得力をもって力強く訴えてくる。

 

この人の味わった逆境は、例えば私が味わった東日本大震災の体験など比にならない重さであった。こう言った方々が築いた礎の上に今の私の生はある。

 

話は逸れるが、ちょいと仏の道に足を踏み入れている立場から本書からあまり外れないことを心がけつつ私見を語る。

 

仏教、とりわけ"唯識"は、市井に飛び込み己を極限まで矮小化・融解させ人々のために尽くすことを説く。これは最近では西洋でも少しずつ取り入れる人が増えてきているようなのだが、やはり基本的には東洋の色彩が濃い。物質文明的価値観とはやや相容れないところもあるからだ。

 

フランクル博士は文中で発疹チフスに罹患し死を覚悟する。病人として死を迎えるよりは、無私の精神で収容所に蔓延したこの流行病で苦しむ人々を一人でも救うことを決断する。

 

対極に描かれているのは、極限状態で保身に奔る人々だ。どちらが正しいか間違っているかの話ではないのだが、窮地に置かれた人間の本性の"素"がこう言う場面でこそ発露するのなら、あとは読み手各人が想像力を駆使し自問自答する課題として、「自分はどう生きるか?なぜ生きるか?」を厳粛に受け止め自身で考える必要があるのだろう。博士が提示するこの生きるテ―マは崇高にして重い。

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私自身の話で恐縮だが、今はすっかりこの"唯識"っぽい行動原理に沿って動いている。何より苦しくないし楽しい。もとは肥大化した自分からの逃避、と言う動機から出ている。

 

うつ病や不安神経症の類いは、「卵が先か鶏が先か」かは分からないが、少なからずエゴイスティックな側面がクロ―ズアップされ、それを人の承認などで埋めようとするところがある。

 

病気によりこう言うのが強化されるのか、これが故に病気になるのかは今の所は分からないが、自意識過剰な人とか承認欲求が強い人なんかは結構病みやすい。

 

これは表立って自身のエゴに正直に生きている人と比べるとエゴの消極的な表出、と言えるかもしれない。だが、少なからず他者からエネルギーを奪うと言う本質的な在り方は変わらない。

 

他者の承認などは自身のコントロール埒外のものだから、他者に依存することによりこのド―パミン臭の強い欲を埋める行動には、当人が気づいて引き返さないうちはどんどんエスカレートし、それに反比例して心はカラッカラに乾いていく、と言うことが起こる。

 

展開されている目の前のままならない他者や現実はいくら何とかしようともがいても、要は自身の内面の投影、鏡な訳だから、内側にフォーカスすること、内観・内省することなくして変えようがなく、ますます心身を細らせていく悪循環に陥り、最悪死に至る。

 

昨日自身の希死念慮について触れたが、今はスカッと爽やかに抜けるような青空ばりに皆無である。だが、依然としてうつ病は恐るべき現代病として現代人に暗い影を落とし、また患者もなかなか絶望のステージから抜け出えない。

 

希死念慮も然り、だが、相も変わらずここは私みたいな変わり者が本気でライフワークとして取り組む対象となる。自分が解決したとて病める現代人に還元できずしてはなんの価値も持たないのだ。

 

残念ながら現時点では、アホだからど―やって抜け出たものか、記憶をトレ―スすることが出来ないのである。色んな複合的な取り組みの複合的な効果でもあろうし、その間曲がりなりにも精神が磨かれた、ってことなのであろうが、万人にこれを強いる訳にはいかないと思う。

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ただ、うつ病そのものがそんなに救いのない、どうしようもない悲劇なのかと問えば、いやそんなことはないっすよ、とははっきりと言える。過去記事でも書いてきたことではあるが。

 

仏教の教えにある「縁起の理」と言うのは、自分・他者と言う独立した個体としての実体性はなく、これらは関係性によって成り立つ、とする。そして自身で自身を認識することは出来ず、他者と言う前提があってこそ自己が確立される、と説く。この辺は西洋でもヘ―ゲルあたりが言っていたことと少し符合する。

 

私は今の師匠に出会い、市井の中に身を投じてみないか?と誘いを受けた当初は、エネルギーが枯渇し内面でそのエネルギーの残滓すら貪ろうとする化け物をもて甘し、自分のことで精一杯なのに何で見知らぬ人のためにすっかすかのエネルギーを使わなければならないのか、さっぱり理解出来なかった。アドラーおたくの師匠は何度もアドラーの書を私に薦める一方で、「死にたいなら勝手に死ね!」とまで言った。

 

師匠にあん時ホントに死んだらどうするつもりだったんすか?と尋ねると、う~ん、そこまで考えてなかった、ととぼける。まあ、優しさの裏返しの厳しさをしっかり持っている人なので、全くもって悪意はないことは重々承知しているからたまにからかう程度に盃を交わしながら聞く程度である。

 

フランクル博士はフロイトアドラーに師事している。とりわけ、アドラーの思想の影響を強く受けているのが見て取れ、共同体感覚を地で行く行動原理を根底に持っている。見返りなど気にしていない。時に己を捨て、目の前の患者を救うために死力を尽くす。自身にも死の影が背後に忍び寄っているのに。

 

話はあちこち飛ぶけど、その人の潜在的な力、まあ火事場の馬鹿力と言う便利なたとえがあるが、私はこれに異常な程に関心があり、仕事場で如何にこいつを引き出すかを常に意識している。圧倒的なパフォーマンスってやつだ。

 

これを人に強いることはないが、そのトリガーとして無私と利他は両軸をなす。目の前の人が笑ってくれるなら。喜んでくれるなら。ハッピーになってくれるなら。まあそれで十分に本望である。あとは日々日々、心を養うが、心のコップを埋めるエネルギーはエロスとアガペーの後者の方である。打算なんぞ必要ない。

 

お金はそれを受け取る人が払いたければ払えばいい。困窮している人からむしり取ろうなどとは考えてはいない。

 

私にとってはお金はあくまで「グリコのおまけ」であり、二の次三の次である。「良い仕事をする」ことが万倍の価値がある。まあ、お金そのものは大好きだけどさ。だが、少なくとも執着する対象ではない。

 

もっとも、あからさまに悪意を持って、それにつけこもうとする人はまあいるだろうが、そ―ゆ―のは散々っぱら無意識の領域を調べ尽くしてきた人間にとっては、残念ながら分かってしまう。だからそう言う人はちょいと無意識の部分の不協和を起こすことにより、ちょいと試させてもらう。

 

「ぼくが電波を送ってやるッ!」

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いや、うそうそ、怪しげなマインドコントロ―ルの類いではない。悪意にもって悪意で返したり、真正面から受け止めたり憐憫や同情の類いの感傷で接するでもなく、悪意をマイナスとするならプラスの想念を私の内面に宿す。

 

すると、無意識の部分の不協和を自覚し、なんだか決まり悪そうに去っていく。

 

その寂しそうな背中を見ると、ああ、この人にも愛する家族はいるだろうに、とかは思う。こう言う人こそ、病んでいる人より救われなければいけないのかもしれないな。今のオレじゃど―にもならんけど。

 

なんだか、「夜と霧」の話なのか人生相談の話なのかよ―分からんくなってきた。終わろう。またしばらく地下に潜ることになろうかと思います。ではお元気でね~。/おしまい。