蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

うつヌケにおける就労の位置づけ。

どうも!ご無沙汰です。

 

なかなか更新できませんと言うか、モチベが・・・w。

 

今は時間的な制約および気力の制約がなかなかクリアできないが、いずれ今の事業所を離れ夜に家庭教師や塾講師の仕事を入れ、勉強に専念したいと考え具体的に動いている。

 

そうなると昼に時間の余裕ができるので、細く長く続けていきたい。できれば交流メインがええなあ。

 

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さてさて。

 

そんなわけで表題の「就労」と言う要素の位置づけである。

 

前提と言うか、背景には「うつヌケ」と言う課題がある。

 

今の「引きこもり=8050問題」にも通じることではあるが、職場や学校の人間関係で精神的にダメージを負った人の復帰と言うのは、経験した人でないと分からない計り知れない恐怖がある。

 

また傷つけられ、いじめられるのではないかと言う恐怖、また引きこもり生活や不登校生活に逆戻りするのではないかと言う恐怖が出足を鈍らせる。

 

そう言った当人の心的・身体的負担を知ってか知らずか、世間は当人とその家族にさんざん石を投げつける。

 

だが、ネットや自身の部屋に「世界」はない。そのことに早く当人が気づかなければならない。

 

ずっとネットを観ていても、華やかな人に対する劣等感を募らせたりネガティブな発言をしている人を見下したりと、精神にとって甚だ不健全な行動ばかりを重ね、ますます病んでいく。

 

その変化のきっかけを与える人は誰なのだろうか?

 

自分は恩師がいた。

 

自分には兄と弟がいるが、自分は劣等感を募らせて、二人のうちのどちらかが訪ねてきたときは息を潜めて部屋で物音を立てないようにしていたし、何を言われるか分からないからずっと接触を避けてきた。傷つけられたくないからだ。両親は正直、腫物を触るような感覚で自分に接していたと思う。

 

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だから、主体として考えられるのは精神科医やカウンセラー、国や自治体などの支援機関が各々連携を取るとともに、誰か第三者が必要となるのだ。願わくば、当人の目線に立て寄り添える誰か・・・。

 

自分は今月の21日から市の引きこもりの方を抱える家族および経験者の家族会に参加する。できたてほやほやみたいで、これからどうしたらいいのかをおのおの知恵を出し合う形になると思うのだが、傷の舐め合いになってしまってはいけない。

 

往々にして、こう言う会はお互いの悩みや愚痴の交換会になってしまい、建設的な議論にならないことも多いのだ。ただ、それでも確かな前進、一歩ではある。

 

さて、話を戻す。

 

問題は当人だ。

 

先だって引きこもりの男性のセンセーショナルな事件が重なった折、世論は社会不適合者に死を!みたいな論調が加熱した。

 

これが今、社会が抱える病理や闇を投影してはいないか。日本はとりわけそう言う色彩が色濃い。いわゆる村八分的な発想だ。

 

当人は苦しんでいる。確かに、ネット弁慶になって気にくわない人に誹謗中傷の言葉を投げたり、家族に危害を加えたりすることなどを擁護することはできない。

 

ただ、そう言う深い傷と闇を抱えた当人にどう寄り添い、悩みを共有するのか?「一歩踏み出す覚悟を」みたいなことを言う人が多かったと記憶しているが、当人としては「惨めでも生きる覚悟」をしなければならないんだと思う。自分のプライドと社会の評価の乖離、ギャップが当人に刃を突き付ける。

 

自分は結構、お釈迦様の思想や哲学なんかに救われた。

 

ただまあ、お釈迦様と言う人は突然この世に生を享け、いきなり自分は真理を悟ったど~!的に世に顕現してそこからすべての話がスタートしている感じで、多くの書物もそう言うニュアンスで編まれている。その他に関しては、読むとホッとする生きるヒント的なお茶濁しになりがちだ。

 

以下の本は先日読んだ。具体的な実践に繋げやすくて分かり易い。

 

お坊さんが教える「悟り」入門

お坊さんが教える「悟り」入門

 

 

自分を例に取る。

 

自分は過去記事で書いたが、健康不安を抱えている。

 

 

shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com

 たぶん「HPA系」と呼ばれる内分泌系の問題なのだが、背中の異物感や背骨に沿って何かが這っているような感覚、右脳部のホルモン溜まりみたいな違和感を常々感じている。これと日々の具体的な行動や言動の何らかの失敗や齟齬を、強く結びつけてしまう思考の癖を持っている。多くは心気症の類ではあるがまあ、いつかは隅々まで身体を診てもらわなければならないだろう。

 

ずっとこの感覚に蓋をしようとしたり、強くネガティブな身体・心理上の反応が出た時にそれを制御しようとしてもがいていた時期が長く続いたのだが、いつしかそれをやめてしまった。もうなるようになれ、と言う心境になった。ケセラセラ、である。

 

まあ今だって正直落ち込むこともあるが、幾分楽にはなった。

 

人間は根源的本能的に、変えられないものを変えようともがく欲求みたいなものがある。過去だとか、他人だとか・・・。それで苦しむのだ。もともと人生をコントロールしたいと言う欲求が備わっているのかもしれない。

 

でも、これは無理だ。苦しいこと、悲しいことと言った生病老死、いわゆる四苦は避けられない。だから変えられないものを受け入れ、変えられるものを変える努力をする。これしかない。変えられるのは自分と未来だ。なんかクサいけど。

 

「小我」と「大我」と言うのが対比されている。人の多くは「小我」に生き、息絶える。だが、「大我」に生きてみるのはどうだろう?

 

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つまり、エゴ心・利己愛を捨てて世の為人の為にと、見返りを求めず活動することだ。

 

この実践を通してしか、今のところは当人の心の闇に光を灯すことはできないと思う。そのために就労が位置付けられていると思うのだ。

 

自分はガテン系だが、これが実に身体・精神にいい影響をもたらしてくれている。コミュニケーション力、実務能力だって向上するし、お金だって貰える。かえって事務系よりいいかもしれない。個人的には今はたぶん事務系は神経をすり減らすような気がしている。

 

農業はお勧めだ。マジで。大地に両足をつけ、大地に感謝をし、消費者やもうそのご先祖もろともイメージの中に広げて、人の幸せのために汗する。セロトニンメラトニンの面にも奏功するだろう。

 

「はあ?んなことやってられっかよ!」

 

と、言う人には唾棄されつつ言われそうだがいや、あえて言うw。これはマジだ。

 

ルフレッド・アドラーは「共同体感覚」と言っているが、人は一人では生きられない。孤独感を募らせていたとしても、誰かを支え、誰かに支えられている。

 

ただ、その実感を肌感覚で得られないうちはエゴや執着心、あるいは承認欲求などを膨らませてしまい、余計に病み世界や人生の非情さをひたすら嘆いてしまう。自分もそんな時期があったからよく分かる。

 

変わらないものはないし、すべては繋がっている。いいことを考え、いいことをすればいいリターンが返ってくるし、悪いことを考え悪いことをすればはねっかえりがくる。そこの構造はシンプルだ。仏教的には「因果応報の法則」である。

 

いきなり善行を積みなさい、陰徳を積みなさい、なんてことは言えない。いや、言ってるんだけどw。

 

人間は独自の周波数やエネルギーを持っているから、病んでいるときはそのエネルギーが空っぽの状態であり、とてもじゃないが動けない。そんなときに自分に鞭打つ必要はない。ただ、その時期は来るし、人生に無駄はないのだ。

 

たとえ運動会の組体操、人間ピラミッドのてっぺんで脱糞したとしてもそれとて無駄な経験ではない。いや自分はしてないけどさ。

 

だから、あんまり難しく考えなくていいと思う。できることからすればいい。

 

絶望し病んでいても、何かやれそうだなって時で構わない。その時々で「今ここ」に五感を集中し、世の為人の為にできることをやる。できることをハートに問うことだ。

 

以上である。相変わらず説教臭いなあ。では。/おしまい。

 

オオイヌノフグリ

(id:ooinunohuguri)

 

コメント、ありがとうございます!

 

ねぎらいのお言葉、ありがとうございます。「鈍感力」なんて言葉がありますが、大事な要素だと思います。センシティブな特性を持っているとささいなことで傷ついたりしますからね。でもそれとて、変えられないものではないようです。

 

>猫P様

(id:nkobi1121)

 

 コメント、ありがとうございます!

 

胡散臭いスピリチュアリストのお歴々がお吐きになったありがたいお言葉ですw。そうですよね、自分も細く長くのスタンスで続けます。

 

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