蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

引きこもり・「8050」問題への具体的対処を探る。②

どうも!

 

さて、ブルーライトカットメガネが速攻で届いた。トラックの運転手さんにはとことん感謝である。いや、勿論関わってくださった皆さんになんだけどさ。とりわけ運転手さんには足を向けて寝られない。

 

なんとなく、長時間のキータッチの後はワサビの利いたものを食ったときに来る目の奥のつ~ん、とした感じのアレンジ版不快感があったのだが、うん、なんとなくいい感じで有害なブルーライトをカット・ブロックしてる感がある。コスパは抜群なので肩こりとか頭重感なんかにお悩みのブロガーさんにはお勧めだ。

 

 さて、「引きこもり問題」についての続きである。「問題」と言うとずいぶん大きく出たな、と言う響きであるが、実はそんなにマクロな話をするわけでもない。

 

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それはさておき、まずは前回話を中断した流れを引き継ぎ、引きこもり当事者にフォーカスをあてて考えてみる。(思いっきりミクロやんけ)

 

 

shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com

 

おそらくであるが、自分が出来ることは当事者にダイレクトに関与することである。でも、ここに至るまでは何重ものカベを乗り越えなければならない。

 

いきなりナイフとかでぶすっといかれるリスクもあろう。腹部に少年ジ〇ンプか電話帳を仕込もうと思う。それはさておき。

 

当事者のうち子供さんの方は、抗い難い孤独感と将来の不安、過去の後悔に苛まれている。発端は学校のいじめであったり、職場の人間関係のつまずきであることが多い。日本社会に特殊に見えるこの問題、やはり根源がそう言う所にある場合が多いので、あまり諸外国に敷衍したイメージを持ちにくい。

 

別に文化人類学とかの知識を持ち出してもしゃあないのですっ飛ばすが、日本の幼少期からの社畜教育とか、没個性を指向し個を尊重しない、あるいはつぶす教育の在り方、異質な人を排除する、ムラ社会的な集団主義なんかにその種を見出すことも出来そうだ。

 

勿論それだけではないのだが、人間関係になんらかの形でつまずいた人は社会に対しどんなイメージを投影するか、と言うことを類推するに、搾取社会であったり権力社会であったり、格差社会であったり。恐らくはネガティブなものを被せているであろうことは想像に難くない。

 

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自己否定感と自責の念を募らせ、内に内に自意識を育んでしまうと、プライドと社会の評価のギャップの大きさに懊悩し、もはやリアルの社会との接点を持つ勇気がなくなる。この心を融かすのは容易なことではない。

 

一歩社会に向けて踏み出す勇気が出来たとて、社会が温かく受け入れてくれる保証などどこにもない。勇気と言うより惨めでも生きる悲愴な覚悟を迫らなければならない。これが出来るのは誰なのか。

 

親はじめ家族は当然ながらその立場からの目線と感情で当人をジャッジする。二言目にはシビアな現実を突きつけるだろう。「あなたのためを思って」などと言う言葉は火に油を注ぎかねない。

 

多くの家族が行政に相談したようだ。ところが行政の返事は、

 

「一生懸命寄り添ってあげてください。話を聞いてあげてください」

 

とか言うもので、あとは本人が出てこない事にはどうにも、と言うものだそうだ。ここら辺は行政サイドでもある程度マニュアル化している。出来ることと出来ないことがあるし、権利を行使した人しか行政は面倒を見ない。

 

いや、別にそれをとがめるわけではない。自分だって昔は行政の側にいたんだし。

 

前回書いたように、こうした各主体の横の繋がりとか連携は不可欠だ。個々が別々に別々、それぞれの事情で動いていたのでは一歩も進まない。これは最低条件だ。精神科・心療内科医・主治医・カウンセラー・行政など専門機関・委託業者。主体は色々考えられるけれど。

 

「駆け込み寺」みたいなところとして、元の体験者が横のつながりを作って手を差し伸べる方法も考えられる。勿論自分もそう言う時には手を挙げたい。「駆け込み寺」と言うだけでなく実際に本人にもリアルでもネットでもアプローチする。すんげえ大きなお世話かもしれないけど。

 

で、いずれは社会への復帰は不可欠になる。だが、ステップが必要だ。このステップを分かり易くプロセス化・プログラム化する。

 

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一番心理的抵抗が大きいのははじめの一歩だ。マガジンのボクシング漫画ではない。最初が肝心ってわけだ。だから、きっかけとは刹那的なものだがものすごい大事で、その後連綿とした本人の自信や誇りを取り戻す端緒として、コケちゃうと全てがおじゃんになりかねない。

 

自己啓発なんかでは「小さな成功体験が自信を生む」とある。そしてそれが行動の源泉となる。これはまあ王道だ。ただ、世界は広いぞ~。ネット=世界なんじゃないぞ~ってことをどう悟らせるか。本人の心に火を灯すか。これはまだ自分にも分からないことだ。

 

相対性の枠組みに組み込まれているから人の数だけスイッチがあるイメージである。ヘソがヘンな所に付いてる人には副作用にも劇薬にもなる。

 

だが、結果に執着していては何もできないのだ。まあ、あとは自分自身がこつこつ考え、人に会い、実行していきたいと思う。

 

さて、話は変わる。

 

来月パチンコに誘われたのだが、最近のパチンコはさっぱり知らない。私の記憶の中にあるのはすんごいどノーマルなパチンコで主に釘を見て台を選んでいたのだが、今はどうも違うらしい。自分の中の時計(あくまでパチンコ事情に限る)は遥か昔で止まっているのだ。

 

これがきっかけでパチンコにハマり、パチンカスになったらどうしようか、なんてことは思わないけど、あれは魔性の遊戯である。

 

闇金なんかだと、パチンカスは格好のカモである。例えば、Aさんと言う闇金の取立人が、パチンカスにパチンコを打たせるために私の紹介するBさん所属の闇金から借りてください、と言う手引きをする。こう言う人は殖える可能性があるものにロマンを抱き返済義務を果たすことなど意識にないのだ。まあ、誰しもそうなるリスクはある。それはそうと裏ではしっかりとAさんとBさんは持ちつ持たれつなわけなのである。

 

だが別に、パチンコ始めギャンブルにネガティブなイメージを持ってはいない。昔は競馬にハマった時期もある。要は「悪銭身につかず」であり、節度を守ろうと言うことなのだ。

 

ギャンブルで得た勝ち金はいわばあぶく銭である。人様のために使うならいいけど(まあ、究極的にはどんな使途であれ誰かの役には立ってるわけだけどさ)、それをさらなる再投資に回す、とかの流れを作るのはまずいだろう。

 

話があちこち飛んだ。では。/おしまい。

 

 

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