瞑想ガチ勢のうつろいゆく日記。①
どうもあけましておめでとうございます。いささか月並みではございますが、今年も宜しくお願い致します。
さて、少々上から気味に一言言わせて頂きますが。寒い。
私の胸に、心にぽっかりと穴ぼこが空き、隙間風が吹き抜ける。
誰か、温かい愛をください。
出来れば、ビジネスとか絡んでない感じのやつがいいっす。
・・・
完璧に肉体的な快楽しか求めてないよね。私の愛は節穴なのかもしれない。
まあいいだろう。うんこ。
さてさて、タイトルに「瞑想ガチ勢」とか書いてしまったが、うん、まあ私は十分ガチ勢だと思う。
ただ、人様に語る時はあくまで慎重で、ドン引かれるカンジじゃないかな?的なエア―空気読みをしながら、ああ、マインドフルネスとか流行ってますからねえHAHAHAHA!的に、何となくお茶を濁して終わること10人中10人くらいである。
日本はとりわけ、「瞑想=宗教」の図式が強固でかつ、宗教はあんまりポジティブなイメージがない。
まあ、これは理由は多言はあえてしないし、無理からぬことである。
んで、瞑想もまた、仏教の禅のイメージが強いだろう。
んで、本屋さんに行くと如何にも「精神世界」コ―ナ―とかにありそうだし、仏教もまた宗教なんでこれまた、否定的な見方をされるのも無理からぬところだ。
科学的なエビデンス云々をくっつけても、嫌がる人にはただただ鬱陶しい尾ひれ葉ひれにしかなるまい。
んなワケで、そこら辺はアホな私でも弁えてはいるつもりなので、今日もまた、この場末のマイブログ上でぼそぼそと語るワケである。さみしいなオイ。
私は去年の4月だかに「超越瞑想(以下「TM」)」と言うものを習うたワケだが、これはある程度時や場所を選ばないので、仕事が引けて部屋に戻りぐだる前に、公園のベンチで青いツナギをまといながら、ノンケだって構わないで喰っちまう体でヤったりもしていた。
たまにがきんちょが来る。一回ヒザの上に乗りやがっ・・・乗ったお子ちゃまがいた 。
目を開け、「があ~。」とかジャイアントロボみたくもろ手を上げて反応してみたら、ますますぐいぐい乗ってきた。
もろ手を上げたのでフトコロと心身のガ―ドが甘くなり、ワキが臭くなったと思ったのだろうか?
しょうがないから駅弁的に後ろからM字開脚っぽく抱え、ママの所へ連れて行こうとするもママはいない。
大丈夫なのだろうか?人見知りとか警戒心とか言うワ―ドを一切合切知らないようだが。
まあ、私は見てくれや中身はともかく、変質者の類いではない。
しかし、放置して帰るのもあまりにも後味が悪いし、しょうがないから一緒に待つことにする。
がきんちょを隣に座らせ、ちんこだのうんこだのと、手伝いに行ってるお寺の三男坊にするみたいなことを言い出す。
そしたら、あんまりそう言う下品なことは好きじゃない、と大人なことを言い、私はケッコンしてるのか?と言う事実確認に関心を示した。
いや、してねえ。と言ったら、しないの?とさらにねじ込んで来るので、左の鼻穴ほじりながらう~んまあ、そのうちするかもね―、と言ったら、彼女はいるの?とか言う。
いや、いねえ。と右の鼻穴ほじりながら正直に自白した。
笑われたり憐れまれたりするのかなあ、と思っていたが、特に感情が動いた様子はなかった。まあ、子供はそんなもんかも知れないな。
なぜか職場でもらったお菓子類の中にチョコボールがあった。それに指でこっそり鼻くそをつけて食べさせようと思った。
そのうち、ママが来た。
やらな…、いや、常に保護下に置いておかないと色々ヤベ―んじゃ、と説教をかますワケにも行かず、ぺこぺこ頭を下げられたので、なんだか照れ臭いんだか忠告したいんだか分からんヘンな心境になってきたのであった。
とりま、こちらも丁寧に頭を下げ、帰ることにする。
何が言いたかったんだっけか。
ああ、そうそう。
「"私"って、どこにいるんだろう?」
的な、ワケの分からない話で、
「結局、"私"なんてもんはどこにもいね―んじゃ?」
みたいな話になってくる。
瞑想ガチ勢の行き着くところはまあ、こんな所なのだろう。
だがまあ、ウソだと思われるかも知れないが、別に人間をやめたワケではない。
ただ、こう書くと、何となく入り口付近でメンタルを安定させるとか、ストレスを軽減するとかの所で留まってほしいな、と言う気は結構する。
上みたいな話は、古から哲学されてきた。
例えば、自分の手を上げ、これは誰の手ですか?あたりから入ると、そりゃあオレのだろうよ、となるのが普通で。
じゃあ、その"オレ"ってのはどこに存在するか説明出来ますか?みたいなことを聞かれるとする。
すると、すんげ―掴み所がないのだが、いや、オレをオレだと思うオレがいるだろうよ、みたいな話になってくるかも知れない。100人中一人くらいは、「オレがガンダムだ!」とか血迷う人もいるかもしれない。
やって見ると分かるかも知れないが、このオレオレ問答が、延々と続くのだ。「無限遡行」などと言う。
デカルトさんが「われ思う、ゆえに我あり。」と言ったのは、真実ではない。
私と思い込んでいる存在、まあアイデンティティが思考に同一化、埋没化している、ってことになる。説明がややこし過ぎるが。
過去記事で自我意識がど―だのこ―だの書いたのだが、こう言うのを言葉で表現するとぐだぐだになるのだ。勿論、私の文才がないことも言うまでもない。
んで、後世サルトルさんが出て来て、いやいや、「われ思う、ゆえにわれ在り」かも知れんけど、「われ在り」と言っている意識は、考えている意識とは別物なんじゃないの?ってことに気づいた。
この「気づいた」とか、「気づいている」ってのがことのほか重要で、自分が「考えている」とか、「思考している」とか、「脳内会話している」とかに気づいたとき、この"気づいている"意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識なのである。
その別の次元の意識が「われ在り」だ、と言う。
織田信長や豊臣秀吉が亡くなるとき、「人生は夢だった」的なことを言っていたと思うが、似たようなニュアンスかも知れない。
ただ、自分の中に思考しかなければ、思考しているなんてことは分からない。自分が夢を見ているのに気づかない夢中歩行者みたいなものだ。
夢を見ている人が夢のなかのすべてのイメ―ジに自分を同一化するように、すべての思考に自分を同一化する。
要は「頭のなかのおしゃべり=自分」と思い込んでしまうと言うことで、こうした古い機能不全の心の癖に囚われて生きてしまう、と言うことになろう。
しかし、自分が実は夢を見ている、と気づけば、夢の中で目覚める。別の次元の意識が入り込むのだ。
デカルトはエゴの根源を発見し、サルトルは相当に、深い洞察をしたことになるが、自分の発見の真の意味に、つまり新しい次元の意識が生まれたことに惜しくも気づかなかった。
エゴの定義付けも結構難しい。少なくとも私は上手く言葉で伝えられる自信がいつもない。常にないと言っていい。
「自我」や「エゴ」は、「分離意識」から生じ、「実体のないある方向性をもった意味」、と書いてある。んでまあ、記憶から形成されているカンジだ。
???
これは本を通読せんと分からん。私と思い込んでいる幻想の偽りの自分だの、自己中心の感情だのの表現も見られる。
すいません、私は何となく感覚でざっくり掴んでいるもので、上手く説明出来んくさ。
↑ご興味のある方がいらっしゃるかどうかは分からないが、「さとり教本」代表格だと思う。順番的にも「上→下」推奨、だと個人的には思う。
ただ、脳みその癖として、その生体を生かそうとする防衛本能とか生存本能が裏目に出てしまう、と考えるとすると?
「心の声」として捉えると、大半はネガティブな否定的なおしゃべりとして現れる。心配事とかの源泉で、これに反応して現れる感情は恐怖とか不安とか怒りとかの、やはりネガティブなものが多い。
実はポジティブなものもあるのだが、なんとなく独り善がりなもので構成されている。
私はああ、そいつがエゴだな、くらいに捉えている。アメリカンな表現だと「モンキーマインド」だの「ワンダリングなんちゃら」みたいなカンジになりそうだ。
エゴは他者との比較と競争が大好きで、エグいくらいに
肉食系だ。それでいて寂しがりな所があり、常に居場所を求めてそこに同一化を図る。物の所有だったり、頭の中のおしゃべりだったり。
時には病床にいる人の、
「私は一生治らない病気の被害者だ。」
と言う自己イメージに居場所を作り、絶え間ない苦しみを量産し、新たな病を生んだりする。その人の都合などお構いなしで好き放題暴れまわることがある。
多くの宗教書とか昔からの自己啓発書なんかを紐解くと、何となく宇宙があって、それはもう四方八方宇宙なのだが(さらに高次元には神仏が、と言う書もあるが、それこそ宗教っぽくなるのでやめるw。)、それは愛とか安らぎそのもので、自我とかエゴとかはその中にぽつんとある光を放たない天体、みたいな書き方をしているものを見る。
まあ適切だろう。
その天体が光を遮って出来る「影」とか「闇」が「苦しみ」であり、んじゃその天体をちっこくすればいいんでない?ってとこに至る人は至るだろう。
だからけして、不幸や災難、病気などは神様の気まぐれでも、天罰の類いでも、ましてやプレゼントやギフトの類いではないと思うのだが、まあそこは人それぞれの信じる所があるだろうからとりま、不幸のただ中にいる人にそ―言うことを言ってくれるなよ―、くらいには留めておく。
だから、自我意識が極まるとこまで極まり、苦しみの極致に至り、これじゃあかん!ってことで我を削る、みたいな営みを始めるワケだ。まあ、他ならぬ私がそうだったのだが。
なんだかまた長くなってきた。ここらで一旦区切る。酒呑みながら書くもんじゃね―な…。ふう。/おしまい。