蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

誰よりも愛深き故に。(聖帝サ◯ザ―)

どうも!

 

自慰を純文学調に表現すると「オナニイ」なのかな?でおなじみのめんつるです。(やめんかい)

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とりま、トリプルやらカルテットやらの仕事期間が終わり、仕事はシングルになってしまいまた、私は今日もまた変わらずシングルである。ほっといて。

 

なもんで、また職探しをしながら、一時中断していたべんきょ―に本腰を入れている。結局のところ、自身のやりたいことそのものが学問なのか、学問はあくまで手段なのかどうかはさておき、まあやりたいからやっている趣味の延長でもある。じ―ちゃんの盆栽とかの感覚だ。

 

基本的には、大体自分の集中力って30分とか35分くらいが限度らしいので、モチベがなるべく下がらないようにそのサイクルでパッパパッパと教科を入れ換えている。あとは場所を変えることだ。

 

ただ、田舎なもんで理系の大学受験生を教えられる人間は、個別指導塾なんかで優遇されるところもあり、実利的な所も踏まえると数学、とりわけ数Ⅲあたりに幾分傾斜的にテコ入れはするっちゃあ、する。

 

ただ、意外にやってて面白いのが現代文だったり、英文読解などの類いだ。

 

実はこれらに通底する普遍性やら本質的な部分と言うのは大きくは変わらず、割りと学問を学ぶとか考える、ってとこだけに囚われず、味わうとか感じるとかの感性を磨く上で有用で、すべての学問の根底にこうしたなんちうか美意識みたいな何かを感じとる、なんつ―のも悪くはない。

 

この点で優れているのがセンター試験の現代文だと思う。毎年毎年格調高い、悪く言えば一見いかめしい評論文の類いであるが、形はちがえど毎年毎年同じような論点と言うか、骨組みが見えてくる。

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通説とか常識とか観念とかの、人間が頭で思考するものを一方の軸とし、感覚とか心で味わうとかの「感じる・体感する」と言うものをもう一方の対立軸とする。

 

これらがずっ~っと一文を貫いているどころか、何年も繰り返し繰り返し出題される一貫したテ―マとして主軸をなしている。

 

これを知らずして傍線部の前後だけで答えを得ようとしても、上滑りで終わったりもするのだ。まあ、センター終わっちゃったけどさ。

 

評論でよく出題される芸術論・芸能論なんてものもそもそも、頭で考えるものではない。ブルースリー御大の言う考えるな、感じろ、の世界なのだ。

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そう言うことをしっかり大学に入ってから学問に取り組む際に心に留めといてね、って言う出題者からのメッセ―ジすら感じとれる。

 

実に教育愛に満ちている。センター終わっちゃったけどさ。

 

昔塾で教えていた生徒が、「出題者はサディストです!」とか言い切ってたのをなんか思い出したけど、まあ、そう言う風に思いたくなることもあるだろう。

 

だが、昔の私みたいにいい大学に入って箔をつけたい、とかだけの動機で頑張っちゃうと、晴れて大学に受かってしまうと、いきなりバ―ンアウトとかするリスクもあるから(まあ、私がおばかだったんだけどさ。)気をつけられたし。

 

さて、自慰ではない「自我」とか「自我意識」についての、やや勿体をつけた話は前記事みたいな内容になる。もう慰めなんていらねぇよね。

 

shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com

 

 いや、それはともかく、説明やらリクツやら概念やらになるとど―も、こんなややこしい冗長なものになってしまう。

 

ここは私の説明の拙さもある。もちっと上手いこといかんもんかね。

 

私事を交えてアレであるが、税務署のアルバイトが始まるかどうかくらいのタイミングで、三凛さとしさんの「90日間ライフクリエイションプログラム」と言うものに申し込んでみた。

 

hikiyosecoach.net

 

これは、コ―チングやNLP、ヒプノセラピ―あたりを専門にしているであろう三凛さんの、You tube上での「21日間プログラム」の修了後にオファーのあるものだ。有料だが、そんなにお高いものではない。

 

当初はネ―ミング的にお金とライフスタイルをテ―マにしてるんかな?と思い、気になりつつも何となく日常の喧騒の中で記憶が曖昧になりつつあったのだが、蓋を開けてみたらヤバかった。勿論いい意味で。

 

ただ、有料のプログラムなので、内容やらレビュー的なところに触れるのは避けるが、今問題になっている「生き辛さ」ってところにかなりウェイトが割かれ、要はメンタルとエネルギーと言うところに相当な熱量が注がれている。むしろ、お金と言うテ―マが副次的と思えるほどに。

 

まあ、今のところ90日間の中の半分くらいのところに来たところなので、色々な観念やら思い込みの類い、あるいはとりわけネガティブな感情と言ったところを上手いこと手放す。

 

その後で、何となく人生の難易度設定を緩めてお金とか仕事、と言ったところを重点的に攻めていく後半へ、と言う繋ぎになっているのかもしれない。

 

ともあれ、いくつか教本としてこれこれを買っておいてくださいね、と指示出しのあった書を列挙する。まあ、これくらいならネタバレにはなるまい。

新版 人生を変える一番シンプルな方法

聖なる予言 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

「いまここ」にさとりを選択する生きかた

「生き辛さ」ってとこをとことん手放していくと、実に面白いことが内的にも外的にも起こる。何となくそこら辺のプロセスを、ただただ禅かなんかのマインドでのほほんと楽しむ。そんな造りになっている。

 

承認欲を満たすだの、目の前の他人を何とかしたいだの、心配事に振り回されて、それが喉元までこみ上がってくるのを大きなエネルギーで、水際で食い止めながら日常に追われていたような人にはかなりはまるだろう。

 

ここらへんはまず、顕在意識部分の思い込みやら、いい悪いのジャッジ癖みたいなもの(これは勿論無意識領域にもある。とりわけ、幼少期の記憶に関わるものがコア。「アダルトチルドレン」だの「インナーチャイルド」なんかですかね)を癒したり手放しりし、ついでに日々のストレスを生む快不快を感じきって手放し、ついで無意識部分のクリアリングをしていく手順になる。「快不快」を両方手放していくところが深い。

 

そうすると、たぶん次に来るのは、ニュートラル・中庸のメンタルのゲットだ。

 

これは、前記事でやたらリクツっぽく書いた「真実の自分」と「自我意識」の主従関係を本来的なものとし、とりわけ自我の防衛機制として発せられる、強い恐怖や不安やらを、あくまで必要なタイミングで出てきてもらうよう仕向けていくことでもある。

 

私は個人的には、潜在意識のクリアリングにはやたらと手間どっているので、後者の"練習"をじれったくなって同時進行で始めた。

 

そしたら、こっちは結構あっさりと感覚を掴めた。たぶん、ここらへんは個人差があるのだと思う。

 

あくまで現時点では私見だが、「真実の自分」と言うのは、外側の激変する混沌とした現実に振り回されない、超然とした存在のコアみたいなもの。

 

これにはジャッジはない。これに生き方を全て委ねると、いいも悪いも、正しいも間違っているもない「あるがままの自分」、と言う境地に至る。究極的には「さとり」と言うことになろう。

 

何と言うか、一反もめんみたいな風任せのメンタルだ。だが別に、いきなり浮世離れしたり出家したりのノリでもない。

 

脳みそ的には「松果体」がそれを司どっているのではないか、と思う。哲学者のデカルトさんが「魂の座」と呼んだ場所。

 

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かつてそれを初めて目にした時は、「はあ!?」と言う印象だったと思うが、まああながち間違いではなさそうだ。「松果体 覚醒」あたりを紐解くと、主にスピリチュアル界隈が熱いw。

 

なもんで、少しばかりオカルト注意なのだが、今は私的にはこの分野には熱心に取り組んでいたりする。

 

松果体は天然の睡眠物質であるメラトニンの生成場として夙に知られるが、他にはDMT(明晰夢だのを見せる幻覚物質)だのの生成場としても知られている。勿論セロトニンにも関与している。

私は過去の記事で何回か書いているように、ちょいとうつ病の無茶な自己治療をやらかした結果、少しばかりコルチゾール(一般に「ストレスホルモン」と言われる。)の流れを自覚出来る特異体質なのだが、この松果体あたりの位置をなんとなくイメージしそこに意識を向けると、ぼわ~っとストレスホルモンが散っていき気分が安定するのを感じる。大丈夫かなオレw。

 

インナーチャイルド」の癒しだのの話はだいぶ個人差がありますよ、ってな話をしたし、そもそも専門の書もいくつか読んだけど、「乳幼児の頃のトラウマに関わる情報を可能な限り集めて…。」云々などとも書いてあり、なんとなく雲を掴むような話も多い。

 

しょ―がないから瞑想の後、日頃エロい妄想で鍛え上げたイメージ力を駆使して赤ん坊の私を脳内で慰めたりする。おかんから赤ん坊の私の写真をもらったり当時の思い出話なんかを聞いたりもした。

 

イメージの中の赤ん坊のオレの泣き声は野太かった。ほっといて。

 

あとはスピリチュアルなんかで言うところの前世の記憶だの、あなたはライトワ―カ―だからそもそも外宇宙から来た魂でその時の記憶はないんですよ、とか言われるともうどうすんねん、って話じゃないですか。

 

だからなんか情報弱者を釣る系のスピリチュアルには線を引かなくちゃならんし、あ~もう。

 

ただまあ、頭の中のおしゃべりが思考とか雑念なわけで、これが取り越し苦労とかネガティブな類いのものだと表層のみならず、無意識領域にある、子供の頃に健全に外へ表現しなかったかあるいは、させてもらえなかった恐怖や怒り、悲しみとかの不快な感情をいちいち連れてくる。

 

「自我の防衛機制」と言うやつはとりわけ、感情を生み出す大脳辺縁系の不快な感情を論理の脳の意志で押さえつけている、要は圧力鍋でぐつぐつ煮立つ沸騰したお湯に手で蓋をしている状態とも言えそうだから、こう言う人の内面はアンバランスでしっちゃかめっちゃかになってしまっていて、とても外部にエネルギーを健全に割けない、とも言える。

 

放っておけば、もう才能を発揮して軽やかに、なんてとことは程遠いところにいるのだ。

 

とりわけ「インナーチャイルド」とか心理療法系の本を読んでいると、毎日父親にレイプされていただの、凄惨な殺人現場を目撃し、しかも不幸にもその殺人犯に追いかけまくられ、命からがら大人に助けを求めることが出来ただのの経験を、幼い頃にした人の例も枚挙に暇がないから、こう言うトラウマから絶えず生まれるストレスに適応するために、当時子供なりに必死で身につけた「生き方」は放っておけば一生涯その人を縛る。

 

あまりにも辛い記憶だから無意識の深いところにそれを抑圧してしまい、何かの拍子でそれがフラッシュバックしたりもするのだ。

 

どうもこう言うのが、「生きづらさ」とか強い自己否定とかの正体っぽい。

 

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誰一人として同じ脳みその人はいないわけだし、相対論になってくるので万人にあてはまる方法論ってとこまではまだ難しい。

 

真の強さとは、自分の弱さを受け入れるところにあり、それを排除しようとしたり否定したりするところからは得られない。しかしまた、そう言う人たちにとっては、やはりそれも難しい。

 

反面そう言う人か泥臭くも生きていれば、直観力とか深い内観・内省を経て潜在的スピリチュアリティに目覚めやすいとも言える。

 

だからまあ、どんな人でも諦めちゃいけない。人は幸せになるために生まれてくるのであって、苦しむために生を享けるわけではない。

 

それでも何にせよ、そう言う人たちはとりわけそっちの偽りの人格で生きちゃってるので、私が取り組むプロセスでなんかかんか気付きなり発見なりがあれば、まあ惜しみ無くシェアする所存である。

 

で、結局またいつもみたいに小難しくなってしまった。では終わる。/おしまい。

 

>猫先生。

 

コメントありがとうございます。

 

まったくです。もちっと小難しいことを誰にも分かるような伝え方をする練習なり実践なりは必要ですね。ゾウリムシ行動原理最高ですよね。私も今では結構はまってクセになってますw。