蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

さとりの境地は母心。

薬局へ寄ってきて、キレイなモデルさんがんばっ!と薄着で脇をおっ広げて、

 

「脇、匂わない!」

 

とかやってるポスターを見ましたが、率直に言っていやむしろお金を払ってでも、匂い消しをする前のワキの下を一日中嗅ぎ倒したいとしか思いませんでした。

 

どうもめんつるです。

 

さて、先日は悪友と共に隣県へ一日旅行バトになってまいりやした。

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リョコウバト(絶滅済)

 

運転手さんは彼だ、車掌さんはボクだ。

 

とりま行く前に、ざっくりと旅のプランを思い付くままあげつらう。

西か?東か?北か南か?日本列島を突き抜けるか?

 

いやとりあえず、一日では東奔西走は致しかねるので、ここらへんまでだったらみたいな 限界ギリギリを攻めようと言う、友の提示したプランと心意気に心の中で押印し握手もした。

 

友よ、ありがとう。

 

お気楽なドライブだったが、まずは割りと重たい話から始まった。

 

彼も私も哲学者だ。いっぱしでは全くもって、ない。

 

ホントのことを言うと哲学と言うのは、素人がやるとただただ、疲れる。

 

ただ、悩んだり落ち込んだりしたときなんかはとりわけ、意識的にか無意識的にか、哲学している自身に気づくことはまあ、ままある。

 

ともあれ我々は、どっちかって―と、佛教哲学だったり東洋西洋の哲学だったりに先っちょだけ嘴を突っ込んで、ぴ―ちくぱ―ちくさえずっている外野のひよっこである。

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悪友は前にどこかで書いたのだが、中学の時分一緒に剣道部に入部し、みんなが正座したのにやおら坐禅を組んで、先輩に竹刀でどつかれたことでちょっとした顔になった。

 

彼は当時からお寺の息子でもないのに「さとりとは。」とか、「因果の道理とは。」などと言う話を、知る人ぞ知る人たちサロンの中で語り部となって語り、何となく私含めこの変人サロンは周りから生暖かく見られていたか、少なくとも浮いていたことは間違いない。

 

何となくだが、過去を振り返り割かし、友も私も少なからず真理だの心だの、森羅万象だの宇宙だの女体の神秘だのに異様に惹かれ、追い求め、結果現在でもやっぱり少し周りから浮いている。

 

本質的な人間の中身って、あんまり変わらないのかもしれない。栄枯盛衰だの諸行無常だのと言うけれど。

 

一方でそんな私は、図書館で借りてきた「超ひも理論」だの「トポロジー」の本だので、持ってきたカバンと胸をパンパンに膨らませていた。

 

でも頭の中はセクロスのことでパンパンだ。そんなような。

 

「煩悩と執着」。彼はのたもうた。

 

そこにひも付いたか何かは知らんけど、うん、古刹巡りをしよう。何となくだが方向性は定まったのだ。

 

私は今リアルタイムでメンタルとエネルギーってとこで色々、セルフの人体実験を試みている。

 

人は少なくとも表層の意識や在り方はまあまあコントロール出来るようになるけど、感情はと言うと、経験を積んで何となく誤魔化したり、発露したり抑圧したりする所の何と言うか、引き出しは増えていく人もいれば、振り回されて辛い人もいる。

 

ただ、不健全な外への表現は周りとの摩擦やらトラブルの元になるし、内側に封じ過ぎると精神を病んだりヘンな病気にかかったりもする。

 

ネガティブな感情ってところはとりわけ、少しばかり経験を通して熟練熟達した上で、あるがままに受け止め感じきった上で、学ばせてくれてありがとう的にお空に帰してあげる、と言うことをするといい。

 

まあ本音では、二度とシャバに戻ってくんなよ~、なのだが。

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「癒し」とか「手放し」、「解放」とかのセラピー系である。これはまあ、第三の選択肢だ。それを今、練習している。

 

じゃあ、感情と言うものは何ぞや?と問うたときに連想したのが「超ひも」だった、と言う訳だ。

 

超兄貴」ではないし何でもかんでも超をつけるのはどうか。いや知らんし。

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そもそも相対性理論量子力学も佛教哲学も、ざっくり上っ面しか撫でていない訳で、今のところは何となくざっくり超ひも理論で全然OKである。生きている間に深く学びたいのは間違いないけど。

 

ざっくりにせよ何にせよ、ある程度落とし込めてもいないうちに人様に語るのは「トンデモ科学」の域を出ず、ましてや「引き寄せの法則」なんかとアヤしげにひも付けてはならない。だが一定数、ひも付けちゃう人もいるだろう。

 

要は言葉や思考とか理性とかでは到底追い付かない、宇宙の成り立ちとか自然界の微細な粒子の振る舞いとかの、真理とか感覚の世界を数式とかで語ってみましょうよ、と言う学問の素粒子物理学者の数式なしの解説本を、数式なしで少し引いた目線で見ている訳だ。

 

「感情」と「超ひも」に何か関係ないかなあ、ってのが事の発端だったが、正直現時点ではああ、感情に関しては「エモい」とか言うじゃん、「エモ」と「ひも」は少しだけ語感が似てるねぇ、ってとこまでにしか至っておらず、実はな~んも関係なさげでもある。

 

だがまあ、感情はとりあえずエネルギーらしく、感じきれば消えていく割かし実体性のないものだから、物質の究極のミニマムサイズの「ひも」ですらないのかもしれない。助けてw。

 

まあた、おめぇはおかしなことをべんきょ―してるんだなあ、とか言われたが、まあ友も割かしおかしなことを会社勤めの傍ら、考えたり感じたりしてきた男だからお互い様だし、だからこその腐れ縁なのだろう。

 

さて。それはそうとブ―ブ―は走り、うねる。

 

風光明媚な隣県との境の山道の自然は前から後ろにかっ飛んでいき、人為的にスクリーンを取り替えているかのように人間は錯覚し、傲る。

 

まあ、人生劇場そのものが、脳みそと言う映写機を通して意識が、眼前の臨場感もりもりの彫像を見たり聞いたり臭ったり吸ったり味わったり触って感じたりとかのバ―チャルリアリティーな訳だから、一つの側面としてはなるほど、真かもしれない。

 

静止している時ですら、観測しているのは人間で、その観測と言う行為が一定のエネルギーをもって自然に何らかの干渉をする、などと言うが、んなややこしいことを考えてないで、五感と毛穴で感謝して味わった方が楽しいことは間違いない。

 

だが、その暇すら与えられぬ…。

 

せめてM字開脚で野ションくらいはさせてはもらえぬか。

 

そこで剥き出しのけつをマムシに噛まれようが熊が眼前に立ち塞がろうが、それも人生劇場の貴重な1シ―ンとなるのだ。

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だが、恐らくはそのリスクは天文学的ミニマム確率であろう。

 

さて、旅レポは苦手だし長くなるので次回に引き継ぎ(逃げたな。)、明日から4日間瞑想のニューバ―ジョンの講習と練習の場(?)に参加する。

 

オ―ダ―メイドのマントラを授けてもらうらしいのだが、別に人生好転の裏ワザ!とか、成功哲学のなんちゃらとかの、訳の分からない聖杯っぽいやつでも宗教の類いでもあるまいし、どっちかって―と興味本位である。

 

先生ごめんなさい。勿論真剣に臨む。

 

この瞑想に関わるトピックは、とりわけ海外の著名人が多数参加していたりもするし(それ言っただけでバレるやんけ)、SNSとかでは発信しないでくださいね、と言われてもいるので、深入りもしないし詳細な体験記の類いとかも書けないのだけれど、変わらずに心は皆さんと一つ、である。

 

んで、一つこれが私の瞑想のラインアップに加わる訳だが。

 

マインドフルネスとかならいいかもしれないですけど、基本的なスタンスとしては一応、今まで色々実践されてきた瞑想はいったん忘れてくださいね、と師は言う。まじかよ。

 

くっ…、忘れることなンて…出来ないさ。まあ、でも忘れることにする。記憶の改竄とかでなく、イメージでw。

 

今までやってきた瞑想法はまあ、様々だ。

 

マインドフルネスは2年くらい毎晩やってるし、たま~に慈悲の瞑想をしてみたりボディスキャンをしてみたり。

 

歩いているときも車にはねられたりしない程度に瞑想してるし、お客さん対応してる時もクソをしてる時もメシを食ってる時でもまあ、瞑想は私の生活と切っても切り離せないものになっている。

 

図書館でさとりの本とかを借りてきて、「空感瞑想」と言うのもやってみた。

 

イメージで、目を瞑っても瞑らなくてもいいのだろうが、自分の質感とか肉感とかの、自分の実体性みたいなものを消していく。

 

自分と言うこだわりであったり、実体性があると思い込んでいるものを消していく。

 

ああ別にうまくいくうまくいかないに一喜一憂しないで、軽い気持ちでやってくださいね、とか書いてある。

 

しかしこのお坊さんは24時間、これをやっている僧だ。いやそうだ。さすが高僧、ただ者ではない。

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それら諸々と決別せよ、と言うのかッ!あんまりではないかッ!いや、ウソだけど。

 

まあ、今まで書いてきた瞑想法は、何と言うか方向性としては、エゴや自我を弱め苦しみから解放される系である。少しトレーニングテイストが強い。

 

自我が他人や世界なんかと分離や分断を生んでいて、例えるなら色メガネをかけて世界を見ているとして、その視界に線を引いて世界をバラバラの個別のパ―ツに分けて生きてきたのだとしたら、今度はこの線を消していく感じだ。赤ちゃんに戻っていくと言うか。

 

最後に残るのはたぶん、此岸と彼岸の境界線を消すこと、となろう。

 

自分と母親、と言うのが最初に赤ん坊の頃引いた線だとすれば、何となく「自分と母親」の境界線を消す、とかのような気もしないではないが、ママンのばぶ味フレバ―なんて気持ちの悪いものはこちらから願い下げなので、それはまあ、済んでいると言えば済んでいる。

 

んで、生老病死の苦諦、ってとこを一旦抜ける感覚は実はおととい、あった。

 

その日は確かに浮かれていたが、別にこれがなんかその、極上の幸福感であるとかの幻想的な現実離れした境地なんかでは全然、ない。

 

田舎だから暴走族がまだ健在で、横断歩道を渡る目の前の歩行者を爆音を上げて、威嚇してるんかなんかは分からんが、そう言うのを見てイラッとはするけど、それをいちいちああ、自分はこんなことに腹を立ててまだまだ小さいなあ、みたいはことは全く感じず、す~っとポジティブな感情もネガティブな感情も、長いこと止まらず勝手に自然に消えていく。

 

だがまあ、言ってみればそれだけのことだし、それがさとりの境地なのかどうかも知らんw。

 

んで、昨日はまたしっかり、朝に嫌な否定的な思考がしっかり浮かんで主導権を握ったり握られたりをうだうだやってたので、まあそれだけのことなのだろうし、今日は今日とてまた、そのありのままの自分、みたいなのとはしっかり長時間持続して繋がれたりもしたし。定着するまではまだしばらくかかると見ている。

 

完全主義はいけない。マジでいけない。テキトーが一番である。

 

それはそうと、完全主義なんかは好きでやってる人はあんまりいないんだろうし、目指すのはそう言うそそり立つぶっとい男根メンタルではなく、暴風が吹き荒れようがム―ディ勝山ばりに左から右へ受け流す、竹のようなしなやかメンタル、ってところであろう。

 

たぶんそう言った完全主義とか悲観的、極端になれば破滅的な思考癖とかの、自分を縛るおかしなこだわりやらしがらみやらからは後付けで随分楽になるのは確かだ。

 

土俵際の揺るがない自己信頼みたいなものもまあ、宿る。

 

アスリートとかの生まれもった才能と恵まれた身体、と言うのが備わっているならぶっといメンタルでもいいと思うし、最初に目指すのはそこでもいいとは思うが、基本的には普通の人であれば、しなやかメンタルの方が良さげではある。

 

興味がある方がいらっしゃるかどうかは別として、具体的に今まで自分がどう言うことをやってきたかの振り返りは近々語るとする。

 

とりわけ精神疾患をお持ちの方は、もし何か一つでもやってみようかな、と言う方がいらっしゃるとしたら、事前にしっかり主治医に確認を取ってからにして下さい。

 

私なんか最初は事後報告したもんだから、主治医がいや、ここまで来て別にそんなことせんでも、と言ってました。

 

明日からの瞑想法はどんなものなのだろうか。

 

あ、ちなみに、バイト代はすでに6割くらいはなくなりました。以上!/おしまい。


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