蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

世界でひとつだけの穴。

どうもお久しぶりです。

 

さてさて、私事から始めると長くなるので(自分語りの権化かい)さくっと本題に入りたいところであるが、自分の今の状況説明から入ってった方がたぶん話が分かりやすくなるので、やはりうぜぇ自分語りから入ろう。

 

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どうにも、振り返ってみれば去年の春か初夏くらいから、私の身にはいわゆるなんらかの試練がやってきていたらしい。とりわけ「健康」ってテ―マ。

 

これは天からの試練であったり、脳のデトックスであったり、と色々な解釈や説明がつけられるのだと思うが、まあどれも真だろう。

 

多くの、何かやりたいことがあるとか夢があるとか、アスリートになりたいとか学者になりたいとか国を動かすような偉大な人物やら偉人になりたいやらなにやら、人はでかい夢をゴ―ルに置き、動き出す。

 

勿論そんなもんにはならんでもいいから、日々のささやかな幸せを噛み締めて心穏やかに生きることこそが私の最上の幸せ、って人もいれば、犯罪や凶行に走ったり病んでしまったりする人もいる。

 

人口80億とかであれば、80億通りの生き方やら幸せの定義やら世界やら宇宙やらがある訳だ。

 

それでもまあ、主に宗教とか哲学の分野で 、そして時代を経て徐々には科学の分野で実証や解明もされ、ある一定の幸せとか正しい生き方やらは世に示されまた、示されてきたものもまあまあある。

 

んで、それに沿って生きれば人は心豊かに生きられるだろう、と言う青写真や指針は抽象されて提示されてきてもいて、多くはそれに沿い生きると言うことをするだろう。

 

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だが、それも絶対的な基準ではない。当たり前だが。ただ、今は脳みその活動をモニタリング出来たり生物学的な掘り下げが進んだり、心理学的な様々な指標で、人の幸福度なんかもデ―タ化なり視覚化なりもしやすい便利な世の中になった訳だから、やっぱりそれに沿って生きた方が後悔も痛みや苦しみも悲しみも少なそうではある。誰も好き好んでストレスまみれの人生を送る人はいまい。

 

いきなり私個人の話に引き戻してアレだが、私はもともとさるゴ―ルを設定しえっちらおっちら山を登り始め幾年月、曲がりなりにも人生の被害者ステージからなんらかのパワーかフォースかは知らんが、そう言うのを得て意志の力で這い上がることは出来た。

 

これは勿論私一人の力で成し得たことではない。まずは自力でやる、ってのはすごく大事なことなんだけど、自力で出来る範囲と言うのとはまた、まるで別物の話なのである。そこでああ、自分は一人では生きられないんだな、ってとこが腑に落ち、骨の髄まで染み渡ったりもするのだが。

 

で、こうした要は"頑張って"どうにかなるステージがどん底の次に来るとすれば、次のステ―ジはたぶん、"頑張ってもどうにもならんステ―ジ"なのである。日本人には酷なステ―ジなのかもしれない。

 

「頑張る」と言うのは「我を張る」ってとこにも通じる。私個人としてはもはや、「頑張る」って言葉は日常では全くと言っていいほど使わなくなったし、人様にも「頑張れ!」なんてことは言わなくなった。これには訳がある。

 

勿論、「頑張ります!」と気合いを入れる人の尻子玉をいきなり抜くような言動もまた、しないのであるが。

 

言葉・表現の違いに過ぎないかもしれないが、私としては「頑張る」と言う言葉は「進歩する」とか「成長する」ってとこ、若しくはその含みを持たせた何か別の表現に置き換えた方がいいような気がしている。

 

「努力」はいい。でも、「頑張る・苦労する・我慢する」系はそろそろ要らんのではないだろうか。

 

「頑張る」が「我を張る」に通じる、ってのは、自我意識の満足を満たす為の行為、って気がするからだ。それが「大我」ならいいんだけどねぇ。

 

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「頑張ってもどうにもならない」と言うのは、頑張れば頑張るだけ余計に事態は悪化するステージなので、要は受け入れるしかないものを受け入れる、とか自我の操作性をあきらめるってとこで、このマインドなりメンタルなりを身につける上では自我ってのはどうしても邪魔になる。勿論人による。

 

自我は今ちょいと言った操作性と言うものを持っている。

 

母親のお腹から生を受けた赤ん坊は感覚の世界に生きているが、徐々に自分対他人とか、自分対世界みたいな境界線を内面にたくさん作っていき、その都度その都度の世界観でもって思考し、感情と五感をもって世界を感じそして分け、同時に記憶を構築し蓄積していく。こいつが「分離意識」と言うものを生む訳だ。

 

「分離意識」は、個人個人の表層が海面の上に幾多の島になって浮いて個別に点在しているイメージだ。んで、多くの人は海面の外や上ばかりに意識が向き、海面下で島が繋がっている、と言う認識は意識下に埋没していってしまう。それがいいとか悪いとかではなく。

 

海の上に浮いている、一部の例外を除く人口80億なら80億通りの各々の顕在意識で世界を認識し、主に自分にとっての「快不快」の基準でいいとか悪いとかをジャッジ・判断・分別・比較などをし、その価値基準で思考し感じ記憶しまた、価値基準も都度アップデートされていく。

 

だから、人生経験を積めば積むほど経験値は上がっていくが、ちょっと何かを拗らせて行ってしまったりもする訳だ。

 

少なくとも、放っておけば上の「分離意識」は生きれば生きるほど強化されていき、それ故の苦悩や孤独感などが内面に色濃く影を落としていく。

 

「自我」や「エゴ」は、ざっくりと言えば「自分中心の思考や感情」だ。これが強い分離意識から生まれまた、分離意識をより強化することはなんとなくイメージして頂けるかとは思うが、とりまざっくりし過ぎてしまった。

 

「思考の操作性」などと表現する書もあるが、なんとなく抽象的ではある。

 

んで、宇宙とか真理とかは、"今ここ"のあるがままの展開で営まれているのに、「~したい!」だの「~したくない!」だの、「いい悪い!」だの「私さえ良ければいい!」だのの自我やエゴの判断から生まれる欲望や煩悩、渇望や執着、ないものねだりの類いは満たされるもの、満たされないものが明確に分かれる。

 

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ただでさえ脳みそはネガティブな方向に意識を向けやすいから後から思い返せば、多くは記憶の地層は嫌な感情を伴い、後者に厚みがあることが多いだろうと思う。

 

釈迦はこう言った人の苦悩の本質を見抜いていた。だからみんな悟りを開きなさい、などとは別に言ってはいないのだが、釈迦への信仰心とかモデリングなんかも併せなんとなくそんな風に後世に伝えられた。

 

東洋的な思想・宗教観・価値観と西洋の物質文明的な価値観が奇妙にハイブリッドされた日本なんかではとりわけ、煩悩まみれの願望を叶えるとか幸せになるとかのために、滝に打たれたり山に籠って修行して自分を痛めつけて煩悩を手放そう、とかの妙に矛盾した、訳の分からんニューウェーブまで出来ちゃったりもした訳だ。

 

「ニ―バ―の祈り」ってのがあるのをご存知の方もいらっしゃるだろう。ざっくりと、「変えられるものを変え、受け入れるべきものを受け入れる。あとはその境界線を見分ける知恵をください」ってやつ。

 

あれもそうだし、もちっと和風に言うなら「人事を尽くして天命を待つ」とか、達磨大師が言ったとされる「結果自然に成る」と言うようなところ。

 

この「天命」とか「結果」とか。あるいは哲学者のエピクテトスが言う「肉体・財産・評判・公職」なんかの、多くの人の願望や執着の的になる外側の領域のものや、他者の承認や称賛を基盤としたものを、自我やエゴって言うのは殊更に執拗に渇望したり、操作・コントロールしたがる。だが、操作・コントロールは基本的には出来ない。

 

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だから一部満たされるものがあるにせよないにせよ、基本は満たされず、堂々巡りをしたり激しく一喜一憂したりしてしまう。仮に満たされたとしてもそれは「満足」であり「幸福」ではない。

 

さてさて困ったねぇ。

 

私個人としては、少し前まで持病ゆえの「反芻思考」と言うものの、仕組みとか力学とか動態静態(んなもんあんのかな?)、あるいはそれの緩和や受け入れ、はたまた開き直りなどと言ったところにもちょいとテコ入れしていた。

 

こいつは、言うなれば「壊れたレコーダー」みたいなものである。

 

過去に積み重ねてきた、主にネガティブな記憶の数々とそこから産まれる言葉、概念で形成されていて、それを延々脳内でリピート再生されるのだから結構たまらないものがある。


こいつの言う言葉にはなんら根拠はない。取り越し苦労と心配症のジェネレータ―で、物凄く誇張されている。だからただただウザい。

 

まあねぇ、誰も好き好んで取り越し苦労なんかしてる訳じゃないしねぇ。

 

んで、心理療法的なアプローチもいくつかあるのだが、手っ取り早くこいつを弱体化、融解するか取り外しちゃえばいいんじゃね?と思い立ったのが最近のことである。おかしな洗脳とかヤバい薬とかでなく。だから勿論容易なことではない。でも私がそう思い込んでいるだけで、実は容易なのかもしれない。そんなような。

 

要はこいつは、ドタマに被さり触手を脳みそに食い込ませているカツオノエボシとかエチゼンクラゲのイメージで、私のみならず世の多くの人がこいつが生み出す「偽りの自己イメージ」で思考して生きてしまっている。これが自我の一つの負の側面である。

 

操作性を持つ自我が人生の主人公に君臨していると、延々と「偽りの自分」の人生を生き、渇望し、目の前の現実に一喜一憂し、不可逆的に朽ちて行ってしまう。

 

お分かりでせうか。

 

自我は別に悪いもんではない。煩悩が悪いんでもない。私が通っているお寺のご住職はお茶目な人なので、

 

「煩悩あってこその人間だよねぇ?」

 

なんて言うてるし。

 

天からの試練だったり、脳のデトックスだったり。仏教で言うところの「忍辱(=にんにく)」だったり。人生における苦難は様々だが、苦しみや痛みは敵ではない。(嫌だけどね…。)

 

別に自ら試練を望むわけではないが、避けられない試練を迎えそして越えるには一定以上の自尊心が必要で、自尊心とはまさしく"我"である。これでゴリゴリに魂が磨かれ愛を取り戻す、ってとこはある。YOUはSHOCK!

 

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一方で問題となるのは、多くの人が自我に人生の主人の座を意図せずしてか意図してかは分からんが、明け渡して生きてしまっていることだ。

 

今こそきっちりけじめつけて、ホントの主従関係はっきりさせたろやないかい、おぉ!?w

 

これは、時代の変遷やら趨勢やらを見れば必然としてそうなってきちゃったところはある。

 

大人から、まだ疑うことを知らないがきんちょの頃から社会とは、世界とはこうなんだよ、って言う外側ばかりを見た教育観を刷り込まれるのだから致し方ないところはあるだろう。

 

外側が間違ってて内側が正しいとかではないが、少なくとも、「真実の自分」とも言うべきものはカツオノエボシでもエチゼンクラゲでもない。要はハ―ト様である。

 

いてえよ~。

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ごめんなさい、熱が籠って熱くなりました。ああ、寝るときはなるべく足先は布団から出して寝たほうがいいっす。ラジエーターになって快眠に繋がり、成長ホルモンなんかも出やすいのだ。

 

長くなったのでまたいつの日か続きを。ではではまた。/おしまい。