蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

家出少女を匿ったら狼少年だった。

さてさて。ふぉふぉ。

 

何の気まぐれかは分かりませんが、気まぐれに更新したくなりました。月曜まで休みなので、読者様のもとを回れたらこれまた嬉しいし、こっちの方はあまり気まぐれにはしたくないのであるが。

 

今受け持っている家庭教師先の子供の共通の好き好き漫画(アニメ)に「呪術廻戦」がある。双子の女の子サイドはその他はジブリと「鬼滅」と「ハイキュー!!」、別の男の子サイドは「進撃の巨人」フリークである。

 

まずは派遣元から依頼が入るとき、成績とかの分かりやすいデ―タはすぐに入ってくるので得手不得手をざっくり把握するのだが、まあ細部については実際に現場入りしてみないと分からない。当然のことながら、成績であるとか学業とかの客観的なデ―タも大切であるが、目線を合わせ、当人と心を通わすとか寄り添うとかの所を抜きにして任務に当たるわけには行かない。

 

悩み、好き嫌い、趣味嗜好、まああとは私がよく触れる意識無意識のとりわけ無意識の領域。特に非言語の情報を読み解く上では少しばかり直観を働かす必要がある。

 

成績を上げるのは家庭教師の仕事でそれが至上命題だが、まあなかなかに日々の努力が報われないとかめんどくさいとか、他にやりたいことがあるとかで、いまいち結果に結び付いていない子専門の派遣元なので、「好きこそものの上手なれ」になってくれそうかどうか。そこらへんは手探りから入る。

 

家庭教師をやる上でよくありがちなのが、親御さんの期待がでかく結果を求められる、と言うことだ。親御さんとのコミュニケーションも大切であるしまた、利害の橋渡し的なことも時にはやらねばならないだろう。男の子の方の親父さんがそんな感じだ。しかし男の子の方は滅法勉強が嫌いである。

 

と、とりま与件はそんな感じで、まずは依頼を受けたときは他の先生が逃げ腰でして、となんだかヘンな物件でも紹介されるような勢いであった。とりあえず趣味を聞いたらゲ―ムと動画、そして「進撃」が好きだって言うんで、アニメを観ようとしたら滅茶苦茶ボリューミーである。

 

一期は観てたんで、そのカビの生えたような記憶で勝負するしかあるまい、と観念し、部屋に入ると「呪術廻戦」があり、通常は休憩時間はコミュニケーションを取るのだが、すぐにパッとそのコミックを手に取り完全に自分の世界に入ってしまうのだった。

 

「・・・。」

 

と、言う訳で。観念して(?)コミックを買ってきた次第である。

呪術廻戦 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

前置きが長くなりました。なるほど。

 

なかなかに重たい感じですね。「死」をどう捉えるか、そして、内側に抱える、そして今後抱えていくであろうエタイの知れないものとの葛藤の中、どう自我を保つのか。保っていくのか。

 

こう言う設定は嫌いではない。てか、超好き。

 

女の子サイドは基本的に、体育会系で日々の鍛練も作用しているのであろう、しっかりと人間性が磨かれている。確かに勉強は得意ではないかもしれないが、厳しい部活の上下関係であったり、日々の練習や試合であったりでしのぎを削る中自分の技能を磨けば、自ずとこう言う人間性は培われていくことは多い。

 

だがまあ、勿論例外はある。人の痛みが分からない人は往々にして、先輩にされて嫌だったことを後輩にもやる、と言った悪習を引き継いでいったりもし、部活の場が陰湿ないじめなどの温床になることもあろう。親御さんからしたら気が気ではない、ってケ―スもありうる。

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双子の女の子の方は前者のタイプである。また、親御さんがとてもしっかりしているし、幼少期から自然に親しんできたこともあり、心が豊かに育まれたのだろう。

 

いや別に、男の子の方に問題があるとかの話ではない。ちょいとはにかみ屋さんでおっとりしたところがあり、また気が散りやすいが、宿題などはきっちり仕上げてくる。こちらはサッカー部だ。

 

う~ん、小中の部活、とりわけ体育会の部活と言うのはなかなかに奥深いものである。違った個性が生まれ、色々な家庭環境に育ち、学校に入りクラス、そして部活動で人間関係を学び、心を育む。どれもけして軽んじられてはならない。

 

どこかのステージで、はっきり陰と陽に分かれる場合がありうる。また、学校時代は陽のステージを過ごした人がその後の人生を順風満帆に送れるかと問えば、そんなに単純なものではない。

 

てな訳で。もういっちょ、今進行形で読んでいるやつを。

 

アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)

これは有名な作品だ。知的障碍を持った人が、さるオペで賢くなっていくのだが?と言う話。何となく結末が見えるだけに、まだ冒頭の部類に入るのだが切なくなってくる。

 

自己と他者。この「実体性」と「関係性」と言うところにしばしば言及するが、人間関係の中で生まれる懊悩の大半が「分離意識」とか「分断思考」、と言う所にありそうだ。

 

人は、人が抱える苦しみの100万分の1も知り得ないだろう。だが、それを知ろうとする、汲み取ろうとする意志があるのなら、それは少なくとも「良心」と言えるのかもしれない。

 

富者と貧者。健常者と障碍者。男性と女性。マジョリティとマイノリティ。他人種。多種多様の宗教。世界は様々な「分断」を色濃く作り出すが、まあ名著「ファクトフルネス」にあるように、世界のこうした悲劇的な「分断」は、実は我々が思っているほどは大きくはなかったりする。だが、多くの人の心にこうしたものは深い影を落としてしまい、時に思い込みに見合った悲劇が生まれてしまうこともある。

 

FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

だが、摩擦を繰り返しながらも、議論や和解、時には血を流しながらも、人間関係は営まれていき、ある人はその中で愛や感謝を学び、ある人は他者や自身を傷つけ続ける。

 

一冊の良書が、センセ―ショナルに取り上げられ、その多くが心を育むものであろうと、それが心の貧しい人に届くことはあまりない。しかしながら、そう言う人とて、どこかのステージで自らの過ちに気づくなら、良書を啓蒙したり宣伝したりにも十分に意義はある。どこで誰がそれを手に取り、どう思いどう行動に転じるかは分からない。

 

はて、何が言いたいんだったか。

 

「呪術廻戦」にせよ「アルジャ―ノン」にせよ、あとは男の子の好きな「進撃」にせよ、主人公の背負ったものは重い。ここは共通している。そして、主人公を中心に営まれる人間関係もまた、実に興味深い。

 

とりわけ、三書ともに内側のネガティブな想念である「恐れ」、「恐怖」、あるいは「絶望」などにも至るのであろうが、その取り扱いは繊細かつ精妙である、と思っている。どれもまだ途中までしか読んでいないのだけれど。

 

「恐れ」を受け入れ、あるいは飼い慣らし、あるいは噛み潰しながら、その逆説で生まれる優しさと強さ。そう言った内面の変化や成長が、その人がその人であるために必要なのだ。「死」についてしばしば触れる「呪術廻戦」なんかは、しばしばギリギリの局面で発露する当人の「生き様」にまで鋭い焦点を当てる。

 

誰かが言っていた。ちなみに、私もそう言う考えはあるが、発言主は私ではないw。

 

「今の子供は漫画で真実を知っていっている。一方で何も分かっていないのは親はじめ大人の方である。」

 

と。

 

はて?なんだっかな?最近Kindleで読んだんだけど返却してしまった。

 

まあ、明らかにそう言うものだろう。思慮分別がつけばつくほど、知恵がつけばつくほど、理屈先行になっていきなんだか頭でっかちになっていったりするものだ。行き着く果ては・・・まあ、言うまい。

 

童心に返ってでもなんでもいいので、漫画はオススメである。なかなか大人になると、やれ時間がないだの、やれ忙しいだのと遠ざけがちな娯楽、と決めつける人は多いのだろうが。

 

うん、私は仕事でそう言うのに触れるチャンスが多いのだから、仕事には恵まれているのだろう。お金はほどほどでいいが、漫画が買えないのは困る。

 

てな所で終わります。では!/おしまい。