言霊と潜在能力と運。①
どうも!ウンコと本気のブラジリアン柔術、めんつるです。
さてさて近況でごぜ―ますが、年末からダフルワ―ク、2月からはまだ正式には決まってないけど税務署からまたお呼びがかかったので、スポット的にトリプルワ―クになる可能性がごぜ―ます。
さすがに「大丈夫かな?」と思い主治医のとこへ行ったら、
「う~ん、とりあえずやってみて、何か問題が起これば対処するか…。」
と言うてた。
つまり、今から心配してもしゃ―ないからやってみるのが吉だろうと言うことは、私にも直感でも分かるしチャンスの神様は前髪しかないそうなので、どしどしチャレンジすべきであると言うところで見解は一致した。
あとは、就労支援事業所の仲介の職員さんに会いに行き在宅ワ―クの相談をしてみたところ、その建物から程近い所にやはり、障がいを持った方向けに就労支援の目的でITノウハウを提供する事業所があった。おお!?プログラミングまであるやんけ!?
もっとも税務署は、当方は午前中しか入れないのでそこで枠の問題が生じるかもしれないし、こっちのIT関連のサ―ビスは就労中の人間が受講できるかまだ未知数なところはあるのだが。
あとは、マインドフルネス瞑想の某上位互換版であるが、こちらは夏までは半額でいいですよ、と言う何ともありがたいご返答を頂けた。
まあ、そんなこんなでお金の無駄遣いはこ―ゆ―時こそ絞らなければなるまい。こつこつ堅実に進むところは進み、あとは適度に経済を回さねばなるまい。私は夢見がちなお花畑脳なので、結構な浪費家なのである。
さてさて、近況はこんなところにして、だ。かなりアヤしげなタイトルを掲げた。
言霊の効果は日々検証中である。加えて、自身のセルフイメージをしっかり固め、日々そのセルフイメージに沿った、"なりきった自分"になって生きる。
「人生は自作自演」であり、「人生は証拠集めの旅」である。
人生は確かに思い込みで大体が決まってしまうのだが、誰しも幼少期に両親であったり、教師であったりと接し彼ら・彼女たちの躾や教育の方針に一定程度沿って生き、彼らの教えを取り込んでいくうちに、深層に「人生脚本」的なシナリオを描き、それが時に呪縛となって当人を生きづらくしてしまう。
セルフイメージ的なポジティブな思い込みは要はプラセボ効果だ。
とりま根拠なく、
「自分は運がいい男だ!」
と思い、 日々言霊やらアファメーションやらで自身に言い聞かせ、自身も日常の要所要所の選択を「運の良い男ならどうするだろうか?」などと自問自答しながら生きていると、紆余曲折・試行錯誤はあれど確かにツイてる人生を紡いでいくだろう。
私もつい先日、こいつをやってみた。
最初はアファメーションを作る。
「私はとても運がいい。」
う~ん、何だか弱い。それに、無理やり言い聞かせている感じ、力みもある。
「私は世界一運がいい!」
これくらい大きく出ないと。んで、白い紙にとりま書いておく。
・・・
いや。
いっそ、突き抜けてみよう。
「私は歴代で最も運の良い男である。」
これだ。
んで、もう1つ。セルフイメージをセルフサービスで付ける。ここは斎藤一人さんの言霊の知恵を拝借した。
「私は愛と光と忍耐です。」
ってフレ―ズがある。
「私は誰よりも眩い愛と光の存在である。」
とかにした。
う~ん、ちょいと宗教じみて来たな。
一人さんも言霊を世に啓蒙する前は、「そりゃ宗教じゃねぇの?」と言われちゃうであろうことを嫌がり随分ぐるぐるしたようなのだが。
科学と非科学。どちらか両極のガチガチの信奉者になってしまうと、前者の場合は視野が狭まるリスクがあり、後者の場合は…まあ、言うまいw。
要はバランス感覚。いいとこ取りをすればいい。
あとは何個かアファメーション用のフレ―ズを用意し私のキモい肉声で録音アプリに吹き込み、時折こいつを眠たいときとかに聴いている。
アファメーションの類いは、いつからテクニック的なものとして取り入れられたのか?言霊信仰は昔からあるけど。
私は苫米地さん、および彼の流派のコ―チング・コンサルの専門家のアドバイスを仰ぎ、何度かアップデートを重ねてきている。
元々はル―・タイスと言う人物との共同作業で苫米地さんが、設定した各人の「ゴ―ル」に臨場感を持たせるために、ビジュアライゼ―ションやアファメーションで肉付けし脳みそを騙す手法として取り入れた流れが一つ。
「引き寄せの法則」とかで言う所の論点と本質は共通しているのだが、前者側は脳科学や神経科学、認知科学の見地から語っており、後者はエネルギーとか精神と言った量子力学や心理学の見地から語っており、とりわけ前者側は後者側にやや批判的な立場を往々にして取りやすいようである。
「フワフワしてる!」って感じで。まあ、私もそうだった。
だが、フワフワする時期があったって、迷う時期があったっていいではないか。人生長いんだし、そもそも過程を楽しむためにあるんだし。
ただ、精神と物質。出来れば足並みを揃える必要はあろう。多くの人は幸せに仕事が寄与する程度を低く見積もりがちである。
メンタルがドツボ、と言うのは当たり前で、常に理想と現実のギャップに煩悶し、葛藤と俊巡を繰り返す中でコンフォートゾーンがずれ、理想側への視点の移動および現状への居心地の悪さを感じる過程の蓄積と言うのが「苫米地流」である。
ただ、物質的にも精神的にも豊かな人で非科学の力を取り入れている人はそりゃもう、数多いる訳で。地に足を付けながらでも色々実験したらいい。
セルフイメージ的な思い込みに関しても、出来れば根拠が全くないとか薄いとかよりは、幾らかでもあった方がいいかもしれない。
例えば私の例であるが、恐ろしい程の晴れ男である。だが、私は自身をずっと雨男だと思っていた。母に指摘されて認識した。
お役所勤務時代。秋田県の大曲花火と言うイベントに上司や先輩、同僚と4人とか5人とかで参加していたのだが、これが何と、私が参加した4年連続、どの日もどしゃ降りの大雨だった。
「めんつるのせいだ!」
とかあからさまに言われたことはなかったのだが、どうもよくよく聞いてみると、私が参加したスポットの4年ばかりがこんな事態になったらしく。マジかよ…。と思っていたものだ。
会場へ向かう前に、さる職員のご実家に寄ってそこからぎゅうぎゅう詰めの電車で移動するのだが、ご実家に着いた辺りでピ―カンの快晴でも、会場が近づくにつれて雲行きが怪しくなってくる。さすがに2~3年も経つと、ジンクスみたいな予期不安を掻き立てられ、それが見事的中していた訳だ。
それがどうだろう?
最近、我が家の親父殿が散歩から、土砂降りの雨に濡れたビジュアル系のア―ティストみたいな風体で家に飛び込んでくる。入れ換わりで外にウォーキングに出るタイミングを狙っていたのが、すぐに晴れてくるのだ。こう言うことが振り替えれば異様な程多い。
いや別に、「晴れ男=幸運、雨男=不運」かどうかなんてことは分からないし、私が出かける時はいつも晴れ、とかだったら草木が可愛そうだ。雨が好きな人だっているだろうし。
だから、まあここら辺はこじつけ半分の無理やりさはある。
「オレは天候すら操れる!」
とか言うたら、社長のお釈迦様に叱られそうである。
「愛と光の存在である」と言うのはいかにもアヤしげだが、どうも私はライトワ―カ―とかETソウルとか何かそんな存在らしいし、両手ますかけだしとまあテキト―に後付けで肉付けした。
まあ、「セルフイメージ」的な話はもう少しだけやって終わり、次回以降はもちっと踏み込んで、それをキツいレベルで持ってると当人を生きづらくしてしまう類いの思い込みである、バイアスとか認知の歪みなんかの分類と対策について語る。
最後に。
「人生自作自演」であり「人生は証拠集めの旅」であるが。
人生がハ―ドモ―ドとかルナティックモ―ドとかになっているのは、運命もまああれど、当人の生き方の設定の組み直しでかなり改善する場合がとても多い。
当ブログもそれを主眼としているが、今の所は既存のノウハウの泥臭い積み重ねである。
発見やブレイクスル―があった都度、記事は出来る限りアップしたい所であるがちとリアルがバタついてきたのでどうなるか。
散々「人生ハ―ドモ―ド」を生き抜いてきた人があえてまた、試練を望むこともあるまい。自身の重たい荷物を下ろそう。
ではでは。/おしまい。
>猫p様
コメントありがとうございます。
「ばれなきゃ犯罪ではないんですよ。」ってセリフをどこかで見たような聞いたような…。
捕まって吊るされても後悔のないように今日も股間浴を続けます。