蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

熟女仮面と呼ばれて。

どうもお久しぶりです。

 

さて、間隔が空いた。ベラボ―に空いた。皆様お変わりないであろうか。

 

まあ、当ブログは今後ともブログ主の自己満足、つまりオ○ニ―的な様相と場末感。

 

それに反旗を翻すが如く白いうどんげの花の如き、匂い立つ面積のやたら小さい女性水着のような、奥ゆかしくも光る自己主張をかまし確かな存在感を醸しながらもアヤしげに、それでいて脇が甘く臭く乳首が浮き出る感じで、臭いものに蓋をしまくりしつこい台所汚れや雑草の如く蔓延ってゆく所存である。

 

いと犯しけり。

 

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・・・

 

誰がそんなブログを読むと言うのだろう。その存立意義、つまりレゾンテ―トルを論理的に、筋道を立てて、意識高く口頭陳述してほしいものである。

 

いやその。

 

ああ、レゾンテ―トルと言えば田舎なもんで、近くの小綺麗な川沿いに、なんつ―か小城みたいな造りのモ―テルがある。いまだにある。

 

あそこにシケ込もうとした車に投石した過去があるのだな。

 

まあいい。年の頃は中坊であったな。

 

さぞみんなしてリア充に爆発してほしかったのだろう。人は無意識下で繋がっているのだ。

 

さておき、台所汚れ掃除と雑草抜きはわりかしライフワークなのだ、個人的に。

 

後者に関してはお世話になっているお寺における重要な仕事でもある、はあはあ。

 

一般に、いや一般かどうかはいまいちビミョーではあるが、水回りの汚い家の家運は落ちる、とか言う。

 

まあ、あながちウソでもあるまい。何となくだが、運の良さげな人の家に行くと、トイレや洗面所、台所などなどの水回りが汚い、と言うことはあんまりない。

 

あとは古着だの、薬だの本だのも、さっさと断捨離をかけることにしている。どちらかと言うと、頭でうだうだ考える前に直感で決める。勿論人様に押し付ける系のミニマリストとかではない。

 

直感が誤ることはあんまりないものだ、くらいに軽く考えているが、時折固いウンコを排泄して切れ痔気味になったとき、アロエ軟膏を買いに行く羽目に陥ったりする。せいぜい困った問題が生じるとしたらその程度だ。

 

豚は綺麗好きなのである。誰が豚やねん。

 

まあいい。

 

普段から心の断捨離だの執着外しだのと何となく身内を知らず知らず巻き込んでいたりもするのだが、この手の話を身内はあまり好まない。

 

あんたァ、御託並べてないでこのカマドウマを何とかしてくれない?などと、口より先に手を動かすことを通常は要求されるものだし、それが自然だと思ってもいるのだ。

 

「小我より大我に生きよ。」と言う。

 

人と言ふ存在は自分の殻に閉じ籠らず、自己中心的にならず、いつか社会に自身をお返ししていくものだと思ふ。

 

んで、くたばる時はくたばる時で、何となく出来る限りは、あまりバケ学物質だの添加物だので汚れていないカンジの身体を自然にお返ししたいなあ、とか思い生きている。

 

「縁起」の概念を持ち出すまでもない。生かし生かされ淡路島。リサイクルでエコなハ―トの持ち主なのである。

 

だが、文明にカブれればカブれるほど自然からは乖離していき、自然の真逆なワケだから不自然なカンジにもなっていく。なんか心身ともにだ。それはとてもチグハグなカンジだがまあ、ある程度は宿命なのだろう。

 

これは文明国に住まう人にも言えるし社会にも言えるし。そう言う国の科学者やその徒は、科学万能主義を唱え傲ったりもするのだろう。

 

まあ、どっちが良くてどっちが悪いのかは知らんし、人は人、自分は自分でいいのだろうが。

 

コロナや天災地災の例を持ち出すまでもなく、自然の猛威は脅威だ。科学は日進月歩には違いないが、どこかで限界を露呈する。また、科学や常識に囚われ過ぎるとなんだか人生そのものに面白味がなくなったりもする。

 

だが、科学がなければ人は生きられないし幸せにもなれんだろうし豊かにもなれんだろうし。

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んで、目下個人的に注目を向けているのは、まあちょいと昔からの関心事ではあるが、西洋医学東洋医学の融合的な話、あとはエピジェネティックスなんかの学際の話だ。ホリスティック医学系の書も結構読んだ。カタカナ文字ばかりだな。

 

名医と呼ばれる人は西洋医学一辺倒ではなく、患者さんの心理的な苦痛やストレスの緩和であったり、寄り添ったりエネルギーを意識的にも無意識的にも与えたりもするものだ。

 

催眠なんかを使い無意識下のトラウマみたいなのにアプローチをかける医師もいるだろう。

 

医師と患者さんの間にしっかりとした信頼関係が出来ているだけで、病気の平癒も早い。プラセボだのラポ―ルだののこれまたカタカナ文字があてられる。

 

西洋医学はどうも遺伝子決定論一辺倒を完全に抜け切れていない。あとは薬。

 

それが悪いとは言わないが、パチパチパチ、となんかやっつけ気味に、患者さんの目も顔も見ないで端末だけ叩いて薬だけ出されて終わりましただの、ガンの余命宣告をどっかの若僧の医師に淡々とされ、ご不満であればもううちに来て頂く必要はないですね、とまで言われただのの話を聞くと、ちょいと違和感を禁じ得ないところはある。

 

かと言って、医師も論文を書くとか政治に奔るとかの方がラクだろうし、何も気難しい患者にいちいち寄り添ってられない、みたいな思惑があるのかもしれんから何とも言えない。その人の仕事観やら価値観の話にもなるので難しいのだな。医師とて人間なのだから。

 

だがまあ、長い目で見て、医師サイドからして見てもパッパパッパと患者さんを事務的に捌く、みたいなやり方に、あまりメリットはなさげな気がする。素人目なのでなんとも言えんが。

 

血の通った行政だの、血の通った医療だのと書くと何となく青臭さであったり、綺麗事っぽかったり理想論っぽさが漂うが、どうも時代の流れなんかも手伝い、心だの魂だのが重要視されてきてもいる。

 

ともあれ、個人的に注視したいのはヒトの遺伝子はあくまで「設計図」であり、環境やらその人の思考やら感情やらは「建設業者」と言うことであり。

 

何らかの原因遺伝子にスイッチが入るとか閉じるとかの話もそうだし、努力が報われるとかの話に至るまで、環境要因の占める範囲も力も極めてエグいことだ。「病は気から」でもあるしさ。

 

適度なストレスも成長と達成感、充実感などなどのためには不可欠だ。

 

んで、そこには少なからず「意識」と言うものの介在をまさしく意識せざるを得ず、じゃあ意識ってなんやねん?と言う禅問答を脳内で相も変わらず繰り返していたりもする。

 

いろんな書籍をあたった。哲学書だの宗教書だの、宇宙物理学だの素粒子物理学の本だの。

 

まあ、相変わらずワケが分からないのだが、少なくとも脳の働きだけで説明がつくシロモノでは到底なく、何かの量子場とか磁気場っぽいやつなんだろうな。

 

でもこいつのことを考えてるだけでなんかウキウキだのワクワクだのするんだから、今のところはそんなもんでいいんだろうな、とも思ってもいる。

 

さて、精神医学の主流と言うのは今どんなカンジなのだろうか?クレペリン的な素質論と、フロイト的な原因を無意識下の負の情報に探る方法。

 

これらは勿論重要だし、無意識領域の否定的な思考や感情の支配力が強すぎると、もう自然治癒もクソもなくなって来かねないので、ある程度専門家の力を借りるところと、本人の自助努力が必要になる。

 

だが、現代はわりと薬が出てしれっと終わったり、患者さんに課せられる努力の重さが途方もないものにもなっていたりもしている。

 

だから、精神疾患の患者さんが集う場に赴くと、とりわけ就労を支援するような場では言い様のない閉塞感が漂っていたりして、何とかしてあげられないものかな、などとも身に詰まされる思いが募る。

 


反面、東洋的な思想を色濃く取り入れたものに「森田療法」がある。

 

これは、とりわけネガティブな感情を否定もせず肯定もせずあるがままに受け入れ、人として当たり前のごくごくありふれた心の働き・メカニズムとして共存していくようなニュアンスのものである。

 

そこにアドラー的な「目的論」なんかも加えておくといいバランスが取れるのだろう。

 

精神疾患の人は勿論、少なからず神経質あるいは神経症的な傾向のある人は、発達過程において当時接していた人物―とりわけ両親の存在はでかいが、その人間関係を自己に内在化している。そこがひずんでいることが多い。

 

それが健全なものなら良いが、あまりにも両親が厳格で教条主義的であるとか、まして虐待であったり暴行が横行していた、とかであると、その後の人生に禍根を残す。

 

あたかも、自分の中に何人もの人格が住まうかの如く、競争の激しい現代社会の中で意識下で自身を責め、追い詰めるAと言うメイン人格がいて、その人格に上からガンガンダメ出しされまくる幼いBのメイン人格がいるが如しで、こう言うのが脳内で延々と反芻してしまう人もいる。

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さて、ど―したものか。

 

こう言うことは結構昔から言われているけれど、児相だったりそれを統率する行政であったり。そこの人手不足であったり。教師の資質であったり。

 

親を選ぶことは出来ないし、しょ―もない教師も役人もいる。

 

本人にとっては本来は過去は過去でしかない筈なのに、後ろにかっ飛んでいくものでしかないのに、過去の記憶がカルマとなって、その人が成長しても同じ問題を繰り返し蒸し返す隠然とした影響力を持ち続けることが多い。

 

今のところは、だ。

 

陰陽の二元がくっきりした中で、苦しみを悪、楽しいとか幸せとか愛とかの何となくポジティブな側面が強調されることの多い要素を善、と決めつけるあり方は、長い目で見て真ではない、と言うこと。

 

だが、目下苦しみの渦中にいる人には勿論そんな言葉は響く筈もない。

 

まして、自己否定の強い人からすれば、恐怖や不安が強いのにさらに輪をかけて、分別と比較の心の癖が強化され、人と比べ劣等感が募りがちでさらに自身を貶めていってしまう。

 


諦めず生きていれば光明が差し、明けない夜はないのもまた真なり、なのだが、人生そのものを途中で断念してしまう人も多いから余計に心が痛む。

 


相も変わらず、何となくふわついた感じのスピリチュアルは嫌いである。

 

脳や心の働きや癖を度外視し、ネガティヴィティをひたすら否定し何やら上から気味に、願いあとはただただ楽しく前向きでいれば大丈夫なんですよ、みたいなポジティブハラスメントをするのはど―も正直、カルトとあんまり変わらないんじゃねえの?って気すらする。

 

まあ、かと言って、ある一定の人生経験なり年の功なりを積んだり経たりすれば、その人なりの味も出てくるし語れるものも出てくるものだ。素早く思考を自動分解しパッと切り替えるしなやかなメンタルもそう言う類いだろう。

 

総論楽観思考になるとそりゃ―ラクだ。「んあ?なんとかなんじゃね―の?(ほじほじ)」みたいな精神状態を保てる。勿論、道のりはそれなりに長い。

 

ガチの悲観主義だとただただ生きるのがつらい。オレは(私は)これで生きるんだ!と決めているならともかく、基本はちょっとの悲観脳細胞を残し、楽観脳をこつこつ作っていくのがいい。

 

色んな方法があり、どこかでその地道な努力がカチッ、とはまる時が来る。

 

単一の方法を極め尽くすのと、色んな方法を組み合わせるののどちらがいいかはその人の特性に応じるので何とも言えないが、禅であったりヨガであったりの東洋的なアプローチ、欧米発の認知の歪みを緩めたり感情を吐き出したり感謝リストを作ったりイメージを使ったりの、わりかしハイソでテクニカルな取り組み、運動などなど様々だ。勿論そこに食事と睡眠などの支えが確かなものでなければならないだろう。

 

日本もけして負けておらず、真言だのマントラだの言霊などは、確かに地道だが効果が指数関数みたいな勾配でぐい~んと上がってくる。

 

「徳積み」もとてもいい。

 

別にお金がなくても与えることは出来るし、天の神様仏様視点からすれば、陽徳より陰徳の方がいいのである。まあ、コロナがあるから、たばこの吸い殻を拾ったり空き缶を拾ったりは、金属ハサミとかがなければ控えた方はいいかも知れないが。

 

私はもうここに書いたやつは、数多ある欧米発のやつは全部ではないが、他は大体はやった。んで、今も勿論やっている。

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言うは易しかも知れないが、訓練に取り組む価値は十分にあり、精神的に病みがちな人ほど逆説的にイケるのではないか、と言う気すらしている。

 

どうせ私なんかに出来っこない!と決め付け、自分にやる前から限界をがっつり被せてしまうのはとにかく勿体ないと思う。

 

話が重たくなってきてしまったが、最近はそんなカンジの自他共の諸活動に身を置いていた。自分なりに掴みかけているものもあるが、まだまだ力及ばずでもある。

 

ちなみに、その一環として講演デビューすることになった。

   

公園デビューと言うと通常は乳幼児のまさしく公園Debutを形容する言葉だが、お役所勤務時代に先輩とエロ本専の本屋さんに入り、戯れにホモ雑誌を開いたら、なんか全裸のグラサンかけたに―ちゃんが夜の公園を練り歩いている写真があり、

 

公園デビューしました。」

 

とか謳ってるもんだから、しばらくの間その先輩夫婦と公園デビュー公園デビュー言っては、げしゃげしゃ笑ってたっけな。

 

まあ、私が講演デビューしたところで、今のところは疾患に対する突き抜けた有益な妙案も打開策もいまいちないワケだから、正直ビミョーではある。

 

ともかくだ。

 

何か有益な情報の一つでも二つでも書けるなら、そりゃあ出し惜しみはなしんこだ。色々と引き続き、内観したり瞑想したり、人に会いに行ったり学んだり。そんな中で何かが見えてくれば、と切に願う。

 

さてさて、秋ですね、あき竹城。

 

マジで食欲の秋だと思う。あと性欲。あ、これはいつもか。

 

リビド―盛りと自己超越欲求だけで生きてきた。もうそろそろ恋する5秒前、とも言える。

 

・・・

 

・・・・・・

 

ぴらっ。

 

最近はエロ本の表紙の、キレイなお姉さんの旨の谷間を見るだけでときめくようになってしまった。パブロフの犬か。

 


そんなところである。 スクワットもホドホドにしようと言う話であった。

 

アレだ。「フライデー」とかを見ると、女子アナさんのページは大概あるものだが、「クン」付けで紹介してるのはなんとかならんものかな。

 

コンビニで笑っちまうのだが。勿論アイドルなんかにも言えるな。「長濱ねるクン」とかって。

 

まあいいが、国会議事堂に卍固めをしたアントニオ猪木氏もそんな心境だったのだろうか?


いや。


それはもののたとえでまた、猪木氏はそんなに性春暴走はしてないだろうぜ。

 

ではまた。/おしまい。