蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

あなたの亡骸に土とナツメグを。

どうも!

 

ちと遅いにもホドがあるが、明けましておめでとうございます。皆様におかれましてはいかな新年を迎えられたであろうか。

 

私は正直、何をしていたかよく覚えていない。克明に記録でもしていない限り、記憶の少なくとも裾野の部分はあっと言う間に霞でもかかったみたいになる。

 

単なる加齢のせいかもしれない。ほっといて。

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さてさて、そんな訳で仕事が始まり、日常が動き始め少しばかり慌ただしいが、何やら二宮尊徳みたいに隙間時間にあれこれ勉強を試みている。

 

尊徳の場合は実家の農業か何かを手伝いながら勉強していたのであろうか?それはいけない、職務中のべんきょ―は。ご実家であろうからいいのかもしれんが。

 

私が何かを成し遂げ銅像でも立つなら、全身金粉とかのうさん臭い感じのがいい。あ、あとは少しばかり股間は盛ってもらえるとありがたい。なんならまろび出ているのも一興であろう。

 

べんきょ―をする上で隙間・細切れ時間の貴重さと言ったら語るに余りある。いやむしろ、時間がダブダブ余っていると自分を甘やかしてしまうのが人間と言う生き物である。

 

細切れ時間を活用しなければならないくらい時間がタイトになってくると(いや、私なんぞは世の社会人の方と比べたら遥かにフ―テンの寅さん系の生き方を目下しているのであるが)、時間あたりの密度が、価値が爆上がりするのだ。勿論記憶への定着度合いもモチベの度合いも時間に余裕があるときとは比較にならない。

 

お金も大事だが、今の私的には時間の方が大事だ。時空が認識する側の先天的直観形式とはよく言ったものである。

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さてさて、まあ自分の話はいいのだが、ここ最近読んだ本はなかなか濃い口のものが多かった。とりわけ唸らされたやつを何冊か。

 

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

夜と霧 新版

宇宙におまかせノート 書くだけで勝手にかなう!

三冊目はギャップ受け狙いではけしてない。後述するが、素晴らしい書であった。単なる宇宙にオ―ダ―系のスピ本とは一線を画している。

 

一冊目。「死」をテ―マとしたイェール大学の名講義の講義録的な内容になっている。随分前に買った状態になっていたが、自分なりに気になるトピックをつまみ読むのに留めていた。

 

形而上学の書であり、魂や輪廻転生、死後の世界などを肯定はしていない。これらが死に臨む人、死を見つめる人の希望足り得るが、誰も確かめた人はいないと言う前提の下に立っていると言える。

 

まあ、ガチの唯脳論者だったさるアメリカの脳神経外科の医師が「プルーフオブヘブン」と言う書に自身が体験した臨死体験期を克明に書き記しており、180度死後の世界を全肯定する側に回った話は知る人ぞ知るし、私も何やら臨死体験を二回くらいやらかしているのだが、まあおいとくw。

 

死は依然、究極の謎だ。んで、この先も謎であり続けるであろう。

 

あまりネタバレ的なところに触れたくはないのだが、「死」の対極って―と、まずは普通に「生」があるし、あとは「不死」と言う"概念"がある。著者は一貫して「不死」を究極の「苦」とする姿勢を一貫して崩さない。これは読み進めていくと、大体の読者はああ、不死ってのは地獄だな、と言うところは納得するのではないか、と思う。

 

哲学書らしく、「死」とは「悪い」ものか、と言うことを問い続ける。あくまで「死」が良いか悪いかは相対的なものだ。ただ、「剥奪説」と言って、この先幸せな人生を享受する権利のある人に降りかかる死は確かに悪い。しかしそれとて…。と、つらつらと、そしてまた淡々と様々な死に対する視座を提供していく。

 

読み終わる頃には、「死」について考えるより以前に、すぐにパッ、と、じゃあ今をどう楽しく、また未来に目的を持って生きるか?と言う「今、ここ」に意識を戻しやすくなると思う。「死」に関してはもう、いくら考えても分からんのだ。

 

私は何度か書いてきているように、うつ病になった結果一時は希死念慮が中途半端な形で残留ししばらく地獄の責め苦を味わったことがある。死にたいくせに死ぬ勇気がないもんだから、ただただ得体の知れない死の恐怖を振りほどけず、一人ひがな部屋の中で苦悩していた。

 

このままじゃいかん、と、あらゆる手を打った。ウォ―キングとかはエネルギーか枯渇しておりすぐには出来なかったが、瞑想は2~3分の単発のやつに着手する。しかし、やはり出来ない。

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だが、そんなことを始めて通算なら3年くらいは費やしたか、ある時からその手の思考が沸き上がってきても、手のひらの上でその妄想を転がし一旦そば粉でも丸めるみたいに脳内処理を行い、弱体化させ楽しい妄想に素早く入れ換えるところにまで至る結果となった。

 

話はさっきからあさっての方向にズレているのだが、世に言う「心配事の9割は起こらない」ことを、論理のレベルだけでなく体感覚で理解するまで、人はどれくらいかかるものなのだろうか?随分前に当ブログでちょいと検証してみます、くらいのことは言ったと思う。

 

私ははっきり"これ"と目標を定めてからであればたぶん半年。それまでの布石を合わせれば5年くらいかかったかもしれない。

 

タカをくくる訳ではないが、くよくよ心配事の類いに頭の中を支配されエネルギーを奪い尽くされるくらいならまだ、タカをくくるくらいの方が万倍マシと言える。私の心配事はつきまとう病気や死の恐怖が長年大半を占めていたのだが、いくつかこいつから楽になる上で決め手になったファクタ―は挙げられる。

 

アレです。一番の決め手は「あきらめないこと」だったw。少年スポ根漫画めいている。

 

取り組みは泥臭い。感情をノ―トに吐き出すことを何日も繰返してみたり、瞑想を何日続けられたか朝顔ばりに経過を観察したり、認知行動療法をセルフでやったり。まあ色々だ。

 

だが、この「あきらめない」ところの拠って立つところが「自分への厳しさ」であったり、「現状や自分の否定」とかであると努力の過程が修羅道となる。ここは最近勃興してきた「自己肯定感」の落とし込みは必須だ。まあ、「自己肯定感」=「セルフイメ―ジ」=「周波数・エネルギー」と言うところはほぼほぼ同義か、何かが何かを包含したりされたりの関係には少なくともある。

 

だが、「自己肯定感」に関してはやや自己暗示めく響きを少しばかり感じる。私は実務上はこの言葉は慎重に用いるが、「受容」・「自己受容」と言うことに関しては少々うるさい。(「うるさい」ってね…。)

 

人は恐らく誰しも、欠けた所を持ってこの世に生を享ける。いや、この"欠けたところ"が後天的にその人に影を落としていくようになっていく。これはたぶん、天の摂理かなんかのレベルだ。この地球に生を享する以上、この宿命めいたものからは人は逃れられない。

 

三冊目の書がなんだかキラキラした願って夢を叶える系の、ちょいとお花畑なスピリチュアル本ではなかったことは思わぬ僥倖であった。だが、最初の「自己受容」のマインドを育てるワ―クの類いがかなり徹底している。

 

臨床の心理療法では「スリーグッドシングス」(その日起こったことで良かったことを3つ、寝る前にリスト化する)とか、「感謝リスト」などを使い心にエネルギーを貯めていく、と言う手法を取ることはまあ多いとは思うのだが、この書では「スリーグッドシングス」は1日通してノ―トを持ち歩き、ラッキーなことがあれば随時つける、と言う徹底ぶりである。まあ、「感謝リスト」に関しては通常のやつとたいした重さの違いはないが。

 

「スリーグッドシングス」は、自分に欠けていると思うこと、うまくいっていないこと、コンプレックスなどなど…前述したような「欠けているように思えること」にただただ向かい続ける脳の癖をちょいと逸らすことを主目的とする。脳みその「思考」の部分は、放っておけば何時間も、何日もその「欠けている」ことを考え続ける。そうやって人からエネルギーを奪ってしまう。

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これは危機回避のための脳に備わった防衛反応には違いない。しかしながら、これを後生大事に抱えて生きていたのではまあ大変だ。だから、「心」や「魂」の声に繋がりやすくするために、普段こうしたネガティブな思考の「種」となるところから意識を逸らしやすくする。何度も書くようだが、ここまではまあまあ世の対ストレス本には書いてあるのだが、上記の本はここがガチで強化されている。

 

あとは、自分の今まで克服したい!変えたい!と強く願いつつもどうにもならなかった自分を受け入れる。前述したように欠点なんて誰にでもあるのだ。「自己肯定感」にやや力ワザっぽい強引さを感じてしまうのは、この「受容」の観点が抜け落ちているものが多い気がする。

 

この本に早く出会っていたら、今のメンタルに到達するまでの時間が5分の1くらいだったかもしれない。

 

二書については次回触れる。珠玉の名作だ。

 

さて、と―とつに一冊目に戻るが、結局「死」に関してはいくら考えても分からん訳だから、「今をどう生きるか?」にすぱっ、と意識を戻す。その"戻す"マインドは、希死念慮を持っている人なんかにとってはかなり重たいが…はい、頑張ります。ただ、万人に普遍的にハマるノウハウなんてのはそうそうはないんだろうけど。

 

で、「戻す」ってとこの話だが、昨今「終活」ってのがあるじゃないですか。私はあえてこれに警鐘を鳴らして本記事を終わる。

 

生は例外なく死に向かうことは普遍だが、だがあえて死に意識を、影を自ら落とすことはないのだ。

 

「脳内モルヒネ」と呼ばれる「エンドルフィン」ってのがあるじゃないすか。あれは、「終活」を企図するご老人の脳内より、今日1日をいかに有意義に過ごすか?ってことを考えるご老人の脳内に多く分泌される。恐らくは前者のご老人の脳内は、ストレスホルモン優位になってしまっているのでは、と危惧するのだ。

 

私はずっと、天の壮大な計算すら予測もつかないスピ―ドで、一人一人は塵芥のような人間が高度な文明を築き、皮肉にも古い脳と、めざましい進化ゆえの新しい脳の葛藤が起こり、それは天の采配がミスったのかいな?と思っていた時期がある。

 

しかし、どうもここまで生きてきて、色んな書に触れて、色んな人と話して、天の采配にはどうやら一切の無駄がない、と言うことが凡人の私にも分かってきた。

 

二つ目の書はそこらへんのことにも触れながら。次回以降ですね。

 

ではでは。/おしまい。

 

>猫p様

 

コメントありがとうございます。

 

才能かどうかは分かりませんが、何より楽しかったですね。 おお、「ポケテ」のサイトはこれまではあまり見たことはありませんでしたね。