自己肯定感が呪いのワードと化すとき。
どうも!ケツからビジネスモデルがもりもり出てくる意識高い系リーマンめんつるです。
いや、リーマンじゃないけどさ。お久しぶりです。
はてさて、本ブログでもたびたび取り上げてます「自己肯定感」について。どうもこの言葉、独り歩きしすぎてんじゃないの?と仰る女性の臨床心理士さんの記事である。
→「自己肯定感」にこだわる母親たち、わが子を息苦しくさせるワケ
なんとなく「自己肯定感あるある」の事例が多々挙げられている。
今となってはちょこちょこ人生相談の真似事みたいなことをすることがあるんだけど、とりわけ若い女性を中心に「私は自己肯定感が低くて・・・」と言うフレーズを確かに耳にすることは多い。言外にはこれを高めたいんだけどうまくいかないとか、この尺度の低さゆえに人生における様々なステージで躓くことが多いとか。そんな心境が背景に見え隠れする。
この言葉自体、一種の強迫的な、呪いのワードにでもなっているかのようだ。
私は自己肯定感とはこんな仕組みで、こう言う価値基準を取り入れると高まりますよ、と言うことは何度か書いてきた。これは勿論自身が色々書籍を当たった結果で、要は受け売りだ。だが、私自身が試しておお、これは、と思ったものを取り上げている。
shirosuke0214-pr-tomo.hatenablog.com
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それはともかく、少なくとも子育てとか恋愛とか、職場の人間関係とかましてやマネジメントとか。こう言う軸にまで個人的な自己肯定感の低さを持ち込んだり、自己肯定感の高い低いに一喜一憂する流れを作ってしまっているのは、たぶんこの言葉を最初に言い出した人の意図とは大きくかけ離れた在り方と言える。
他者との比較論。あるいは劣等感(優越感)やコンプレックス。こうした垂直思考的な物差しを強化してしまう逆選択的な使われ方をしばしばされていて、本人ががんじがらめになってしまっている。これでは苦しかろうな、と強く思う。
だから「自己肯定感が低くて・・・」と切り出す方には、いや、自己肯定感も大切かもしれませんけど、まずは自分を幸せにしてそれを他者にシェアしましょう、そんでもってそれを循環させましょうと言う視点を提案し、他者を喜ばせることとか、子供を抱きかかえて癒されるとか。誰かを幸せにするとか。誰かによく見られたいとかの承認欲から発せられる対人関係とは切り離したものを提供したりしている。
あるいは、組織のマネジメントの話なのに個人の自己肯定感の低さにフォーカスしている場合なんかは、明らかに視点にズレがあるので、組織の中の仕事や人員の割り振りとか、優先順位とか。そう言うもろもろのベーシックかつ円滑な人間関係の構築を目指すよう視点を切り替える方が良いと思っている。
上の臨床心理士さんの記事は子育てについて言及している。子育てに答えなどない。誰の子育てが優れ、それに引き換え誰の子育てが優れていないとか。ましてやそれが自己肯定感によって左右されたりするものでは明らかにない。
人なんてそもそも不完全だ。ぶっちゃけて言えばみんなどこかおかしい。それをいちいち攻撃したりされたりしてたら生きていけないし、過去を清算しきれずに過去を否定し、この呪われた過去があるから私は幸せになれないんだ。そんな決めつけ方をしているのならその先は絶望しかない。あくまで目的論的な視点を持ち、過去がどうあろうと今この時点でどんな選択をするのか。それを問うた方が建設的だ。
自分は十分に愛されなかった。愛されなかったから自分で自分を愛さなければならないのに、どうしても自分を好きになれない。自分の醜い所ばっかりが目につくし、他人のあらさがしをしてしまう。懊悩の多くはこんな基本構造だろう。これは分かる。自分もそんな時があったし。
まあ、誰もが通る道なんだろうけど、自己否定してしまう自分をますます貶め、否定する。そんなスパイラルも断ち切ることは十分に可能だ。だがそれは、ただただ自己言及・自己完結的に自分を癒すワークとか、自己コーテー感を高めるワークとか。そう言ったツールでどうこう出来るものではない気がする。
信田氏はこう書いている。自己否定もまた、必要なプロセスなのだと。弁証法を引き合いに出しているが、アンチテーゼと言うのは否定そのものだ。その後に一段上の、抽象度の高い視点が待っているのである。これはアルフレッド=アドラーの、誰しもが持つ劣等感は成長のために必要不可欠なのだ、と言う文脈にも通底する。
自分と言うのは途方もなくでかい。これはもう真実だ。無限の可能性を秘めているのは誰しもそうで、これはけして綺麗事や建前でそう言うことを言ったり書いたりしているわけではない。だが、混沌とした世界の中ではまた、ちっぽけで無力な存在でもある。こうした矛盾を内包し、あやういバランスを取りながらも、自分の幸せの為、他者の幸せの為生きる。まずはこんな原点から始め直したっていいではないか。いつから始めたって遅くはないし。私はそう思うのだ。
自己肯定感を高めるのは大いに結構だけど、強迫的にこの言葉に縛られるのは本質から離れるし誰も幸せにはしない。他者の中の自己。巡り巡って自分が満たされ、また誰かを満たす。他者を無条件でリスペクトする。こうした視点を抜きにしては、このフレーズは呪われた言葉にしかならない。
そんなことを思った。
さて、年末である。年の瀬のご挨拶などできるだろうか・・・。今から心配だ。お寺の方では年末年始は超絶忙しいようで、私はどれだけ駆り出されるかは正直分からない。肉体労働も多いのに男手が少なすぎるのだ。
もういっそ、公園のハッテン場で青いツナギ着て若いツバメをたらし込んでやろうか。それとも二人分、三人分の筋肉をまとって二人力、三人力になるとか。
私はその間、おフランスへ行ってトリュフを探すバイトをしてくるかな。
ではでは。風邪などひかれませんよう。また会いましょう。/おしまい。
>Green様(id: shiho196123 )
コメント、ありがとうございます!
阿頼耶識は潜在意識とか、集合的無意識なんかと同じような意味合いですよね。
コメント、ありがとうございます!
ねぎらいの言葉、ありがとうございます!とても素敵な結婚式でした。少しでも役に立てたのなら本望です。
>モカリーナ様(id: mocharina09 )
コメント、ありがとうございます!
楽しかったです。あのご夫婦には本当に幸せになってほしいなあ、と思っています。レレレのおじさん、私は結構可愛いと思っています。
コメント、ありがとうございます!
ああん!?最近だらしねえな、エロいか、ああん、ヒワイか?
「ガチムチ」も好きで、今でも時々見ています。あまり動画は残っていないのが悲しいです・・・。
コメント、ありがとうございます!
出来るかどうかはともかくとして、どっちも好きですね。昔はもう、モンスター社員だったことも・・・w。