蒲焼きと檸檬と娘のサロン

「頑張らないうつヌケ」をモットーに。だる~く、ゆる~く、時にはタイトにチートに。

いま、頑張っているあなたえ。

どうも!

 

お盆休み、満喫しておいでだろうか。

 

いや、お盆は満喫するようなものではない、不謹慎なことを言うな!と言われれば全くその通りなのだが・・・。

 

とりあえず我が家ではお盆中はお墓参りはしないので、自分は仏壇に手を合わせている。弟夫婦の奥さんのご実家は山形なのだが、向こうではお墓にはご先祖の霊はおらず、家に戻ってきているのだからなんでわざわざお墓に行くんだ?という考え方らしい。ローカルルールがあるのか・・・。

 

ともあれ。

 

けしてご先祖の霊を軽んじているわけではない。ご先祖あって今の自分がある。自分が人間としてこの世に生を享けたこと自体がまあ、奇跡のようなものなのだ。かつて死にたいと思っていた過去の自分をタコ殴りにしたあと、近所のもつ煮屋さんに連れていきたい気分である。そのもつの原料になっているのも命だ。

 

こうやって人は巡り巡って生かされ、誰かを生かしていくのである。

 

まあ、それはともかく。

 

前記事で紹介した書はまだ途中なのだが、読み進めていくのと同時進行でアニメ「ばらかもん」を観ていて、なんだか共通項を見出したので、アニメの雰囲気よろしくゆる~く思ったことを書いていく。

 

無意識さんに任せればうまくいく (PHP文庫)

無意識さんに任せればうまくいく (PHP文庫)

 

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一言でまとめるならば。

 

「人生、楽しまなければ損だ。」

 

「死ぬこと以外はかすり傷」あたりもおまけでつけておくw。

 

自分はなかなか人生をくっそ難しく考えるモードから抜け出せずにいた。これは意識と無意識のうちの、「意識」が先行しているモードだ。いくら考えても分からないことに答えを出し、決めつけようとしている。

 

だが。

 

「分からない」ことを歓迎しよう、と言うことなのだ。「さんせいのはんたい」的に。

 

ソクラテスも「無知の知」と言うたではないか。人の気持ちなどわからないし、自分の気持ちすらじぇんじぇん分からない。それでいいのだ。そんな心境である。

 

それを日頃、

 

「ああ、上司にあいさつしたのに不機嫌そうだ、なんか悪いことをしたのだろうか・・・。」

 

とか、

 

「彼女のメシの誘いを断ってしまった・・・。どう思われただろう・・・。どんな埋め合わせをしよう・・・。」

 

とか。

 

「対面に無言のプレッシャーをかけられている・・・。早くツモらないと!早くツモらないと!」

 

とか。

 

日頃なんか色々考えちゃうじゃないですか。

 

無意識の潜在的なパワーを引き出すのはまあ、言うなれば「考えるより感じろ」の境地なのだけど、ここに至るのは口で言うほど簡単ではないだろう。さんざんっぱら意識先行で考えて不安や恐怖や葛藤を持て余しズタボロになった経験や土台があって、ああめんどくせえな、となった時が転機になるのかもしれない。

 

だが自分のはまだ、「ゆる~く生きよう」と「頑張っている」感じだ。だからほんの初歩の初歩、見習いの段階である。

 

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ともあれ。

 

『人の気持ちは分からない。そして、自分の気持ちも分からない。「分からない」ことを歓迎しよう。』

 

このフレーズは、無意識であり、自身のポテンシャルを引き出すおまじないみたいなものである。

 

逆を言えば、「分からない」からこそ楽しいのだ。そこでこのおまじないで無意識領域にその仕事を丸投げしちゃうのである。そうすれば、無意識が答え探しの検索を始めるだろう。

 

さて、アニメ「ばらかもん」の舞台に話を移す。

 

この主人公、なんか自分に似ている。イケメンなところは全く似ていないが、子供にやたら懐かれるところとかも含め共通項があるな、と思った。

 

自分は幼い頃、厳格な父に一番しか認めん!的な教育方針で育てられた。父はテストで100点を取るとそれが当たり前だと言う表情を浮かべ、少しでも点数が悪いと自分をなじった。

 

また、望まない剣道と言う習い事をさせられ、試合で負けると会場で叱責されたりもした。結果が出ないのは努力不足だ、あげくの果てには社会は減点主義なんだ、とか小学校のガキに言い出す。そんな父を本音では嫌いだったと思う。

 

こう言う育てられ方をすると、大抵はいけすかないガキんちょができあがっていく。自分とライバルみたいな、テストの点数で競っていた優等生がいたのだが、家庭で抑圧されていたフラストレーションの爆発はしばしば、その子への暴力と言う形で発露した。

 

劣等・優越コンプレックスを色濃く持ち、人を見下し、強いものにはへつらう。今思えば相当ヤバいガキだ。

 

それが紆余曲折を経て、まがりなりにも自意識が育ってくると行動・言動面では後退してもいくのだが、無意識の領域には幼少期のトラウマが手つかずのまま放置されるので、しばしば成育してからも自分を苛むようになる。

 

さて、「ばらかもん」の主人公の半田くんはさんざん苦労して賞を取った書道の作品を、審査員長のおえらいさんに

 

「お手本のようだ。平凡を脱しようとしたのかね?」

 

と評され、あろうことか殴ってしまう。

 

それが発端となり、離島で頭を冷やしてこい、と言うお父さんの計らいで、五島列島に移り住む。そこで新たな自分を発見しようと模索する物語である。(ちょっと違うかもしれんけど、少なくとも自分の印象ではそんな感じ)

 

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なんとなく優等生で型や基本を重視し、とにかくプライドと上昇志向が強い。この辺がかつての(いや、今もだけど)自分と似ている。それが、島の無邪気で天衣無縫な子供たちや、懐の広い大人たちとのふれあいの中で変わっていく。「自分らしさ」を見つけていくのだ。ひたすら競争で勝つ、上へ行く、と言う軸ではなく「自分の書」を。そうなのである。人と自身を比較する軸に発見はない。

 

「今先生、たのしいか?」

 

ヒロイン(?)のなるはしばしば、てんぱっている半田くんに無邪気にそう問う。

 

世界や自然は混沌としていて、変化に富んでいる。それでいて反面変化に乏しくも思える。とにかく、人のこざかしい計算など超越している。東洋の神秘思想、とりわけ老子荘子らが自然の中に見出したもの。直観的なもので言語化は難しいのだろうけど、少なくとも上述の意識をめまぐるしく弄したところでな~んも分からない。田舎にDIYで一人旅行なんかするとそんな心地になる。

 

今は私は父との確執は薄らぎ、日々老境に入って行く父を心配もしながら、少しずつ不器用ながら歩み寄りを進めている。親はしばしば愛情や自分の信念ゆえに、本質を見誤ることがある。それを自分も自分なりに受け入れ、感謝するところはする。父は父なりに、自分を全うに育てようと必死だったのだ。

 

まあ、そんなこんなでかつての記憶と今の「ばらかもん」の話題がクロスオーバーして訳が分からなくなってしまったが、自然はええなあ、と言う話だ。雑踏を離れ、のんびり海人になって釣り糸を垂れ、頭を空っぽにして糸先に集中したい心境になった。

 

釣りはあかんけど、帰省している友人の一人と連絡が取れたので、つもる話も合わせカレーでも食ってこようと思う。皆様、のんびりしてくだせえ。

 

では!/おしまい。

 

 

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